夏の暑さも逃げていき、長雨の季節がくる。いや、もう早々ときている。
朝だというのに暗く泣き出しそうな空の下、三蔵は悟空を伴い、悟浄と八戒が住む家へと向かっていた。三蔵は他所の寺の法事に駆り出された帰りであり、悟空はいつも通り同行を許されていた。彼ら二人が悟浄と八戒の二人に特に用があったわけではない。強いて言えば、悟空が行きたがったから、というのが足を向けた理由であった。
「なあ、元気かな、八戒」
悟空には似合わぬ心配顔だ。雨が降ると八戒が微妙に生気を失うことを悟空は知っていた。八戒は悟空に知られたいとは思っていないだろうが。
「・・・・あんまり心配そうな顔すんじゃねえぞ」
三蔵が釘をさすと、悟空は、うん、と頷いた。別に八戒を困らせたいわけではないのだ。ただ、八戒のことが好きだから、彼のことが気にかかる。悟空は飾ることも気取ることも知らぬ素直な少年である。誰かさんとは訳が違う。
二人は急ぎ足で森の中の一本道を進み、昼前に悟浄たちの家にたどり着いた。
「降りだしましたねえ」
その言葉通り、音もなく雨が降り始めていた。
わずかに青褪めた頬を見せ呟く八戒を横目に、三蔵は茶をすする。顔色が少々悪い以外に体調に異常はなさそうだ、と見定めたところである。
「なー、八戒! おかわりまだある?」
欠食児童よろしく悟空は八戒の作った昼食をまだ食べている。寺の食事より確かに旨いとはいえ、いくらなんでも食いすぎだ、と三蔵は眉間に皺を寄せたが、八戒は嬉しそうに悟空の皿におかわりを盛ってやる。
「悟空が来ると作り甲斐があっていいですねえ」
そんなことを言うのは彼くらいのものであり、嬉しい悟空は満面の笑みで肉も野菜も頬張り続けていた。
「・・・・・・河童の野郎はどうした」
思い出したように三蔵は尋ねた。到着して優に二時間は経ってからの質問だったからであろう、八戒は笑みを漏らした。
「ああ、悟浄なら、ちょっと手伝いに駆り出されてるんですよ」
「何の?」
無邪気に聞いた悟空であったが、すぐに後悔した。八戒の顔に見えない痛みが浮かぶ。
「・・・・えーと、悟浄は言わなかったんですけど、どなたかの結婚式らしくて。今晩は帰れないかもしれないそうです」
三蔵は黙って煙草を取り出し、火を点けた。無駄に気の利く八戒が灰皿を取ろうと立ち上がったそのときである。昼間だというのにいきなり室内が暗くなり、冷やりとした空気が流れた。その変化は一瞬に近いほど短かったため、気のせいかと思おうとした三蔵であったが、悟空のギクリとした顔を見て、そして、その視線の先にあるものを目にし、考えを変えざるをえなくなった。
――――イーだ!
八戒の背中に少女が取りついている。半透明の、腰から下が空に溶けるように消えている、少女である。年の頃は十五、六といったところだろう。三つ編みにした長い髪が背中に揺れている。彼女は大胆不敵にも、天下の三蔵法師に向かって敵意むき出しの「イー」をかましたところであった。
当然ながら、三蔵の蟀谷に青筋が走る。彼は少女を睨みつけたのだが、あにはからんや、その鋭い視線はちょうど振り向いた八戒と鉢合わせることとなった。
「・・・・・三蔵?」
なんでもねえ、と慌てて視線を逸らしたが、八戒は怪訝そうな顔のままである。どうやら彼には背中についているモノが感じ取れていないようだ。図に乗った少女は、勝ち誇った顔で、今度は「あっかんべー」と三蔵をコケにしている。
その後は散々であった。少女は三蔵を挑発し続け、一応は反応すまいと努力した三蔵の機嫌も結局は下降の一途をたどることとなった。加えて、悟空の陽気さは影をひそめ、妙に神妙な面持ちとなっている。その視線が、ちらちらと八戒の背中に行くところからして、女が悟空にも何か良からぬことをしているのではないかと思えば、三蔵の気分も良かろうはずもない。急に不機嫌になった三蔵と、元気のない悟空を前に、八戒は困惑した顔をみせるのみである。
はっきり言って、苦行に近い。
「・・・・帰るぞ」
雨が上がったところを、これさいわいと三蔵は席を立った。いつもは多少駄々をこねる悟空も素直に頷いた。
「あの・・・・大したお構いもできませんで」
見送る八戒の瞳に少し影があることだけが三蔵の心残りと言えば心残りであったが、そんな気持ちは、八戒の背後から「しっしっ」と邪険に彼らを追い払おうとする少女のせいで八割がた吹き飛んでしまう。この女は八戒と二人きりになりたいのだ。ならば、そうさせてやる、と三蔵は憤然とした面持ちで別れを告げた。
「邪魔したな」
「バイバイ、八戒」
さようなら、という八戒の言葉を待たずに三蔵は八戒に背を向け、速足で歩き始めた。悟空も慌ててついてくる。しばらくは二人とも口を利くこともなく歩き続けた。
「・・・・・・なあ、三蔵」
森の出口が近くなったころ、思い切ったように悟空が口を開いた。
「あの女の子って・・・・・やっぱり・・・・」
悟空は口ごもっている。
「何かされたのか」
三蔵が聞くと、悟空はかぶりをふった。
「そうじゃなくて・・・。泣きながら、八戒に頬ずりしてたよな? あれって・・・」
泣きながら・・・なんだと? と三蔵は自分の耳を疑った。三蔵に見えていたようには、悟空には見えていなかったということらしい。なぜそんな面倒くさい真似をするのかと三蔵は訝った。
「・・・まあ、邪悪な気配はなかったな」
三蔵に対しては悪意丸出しではあったが、憑りついている相手への害意は皆無であったのは間違いない。
「なあ、八戒に教えてやった方が良かったかなあ」
「何をだ」
「だって、あれ、八戒の姉ちゃんだろ?」
煙草を吸おうと袂に手を入れた三蔵の手が止まった。思いつきもしなかったからである。いや、正体の方ではない。女が誰であるか、一目見ればわかった。あれだけ似ているのだ、分からないわけがない。しかし、背中にお前の姉貴が憑いているぞと八戒に教えてやろうという気は、三蔵には一切湧いてこなかった。一応、理由はある。
「八戒が気づいてねえものを教えて意味があんのか」
姉の姿が見えないことを嘆き、気配さえ感じられない自分自身を呪うだけだろう、あの男は。
「・・・・・そだな。・・・・・・気づいてほしいんなら、自分でやってるよな」
まったくだ、と三蔵は心中で吐き捨てた。八戒に見る能力が欠けているわけじゃない。
それきり三蔵と悟空の二人は黙って歩き続けた。森を抜けるあたりで出くわした悟浄を問答無用で街に追い返したのが良かったのかどうか、三蔵にも悟空にも分からなかった。
「また降ってきましたねえ」
深夜、降り出したのは大粒の雨である。しばらくは止みそうにない。悟浄がもしかしたら帰ってくるかも、と待ってみていたのだが、この雨ではそうもいくまい、と八戒は静かに息を吐いた。
八戒はとうに飲み終わっていたコーヒーカップを洗ってしまうと寝支度を済ませ、寝室へと足を向けた。眠れるかどうかはともかく、横になるくらいはしなければならない。八戒が衰弱して喜ぶ人などいないから。いや、もっと素直な言い方をしよう。八戒が体調を崩そうものなら、心配したり、眉を顰めたり、不機嫌になったりする人たちがいるからだ。八戒は薄く微笑って明りを消し、ベッドにもぐりこんだ。雨の日の悪夢も、目が覚めれば喧しい人たちとの日常に紛れる。
しかし、それにしても、と八戒は枕に頬をうずめながら思う。今日は悟空も三蔵も変だった、と。急におとなしくなったり、不機嫌になったり、何か理由があったのだろうけれど、八戒には皆目見当もつかない。
――――八戒には見えない手が、その髪を撫でる。
急に帰ってしまうし。お夕飯だって、食べて行ってくれてよかったのに。なんとなく彼らがそろそろ来るような気がして、たくさん買いそろえてあったのだ。悟浄も帰ってきてくれれば、四人で食事できたのになあと八戒は小さく溜息を吐いた。
――――空に透ける唇がそっと八戒の頬に押し当てられる。
そのとき、雷鳴とともに雨音が激しさを増した。八戒の身体に刻まれた傷が自己を主張し始める。過去へ囚われにおいでと手招きする。
眉根を寄せて寝返りを打った八戒の耳に、声が蘇る。珍しく今わの際ではない暖かな想い出とともに。初めて出会った日の花喃の声が。
『はじめまして、・・・・・あなた、猪悟能っていうの・・・?』
大きな瞳が彼を捉えていた。あの瞬間、これまで生きてきた理由がすべて腑に落ちた気がした。
――――少女の瞳から涙がこぼれ、空に溶けた。
同じ寂しさを抱えた者同士が手を取り合うのにさほどの時間はかからなかった。
『明りを消して・・・』
震えていた声が愛おしかった。その身体を掻き抱く手も、もちろん震えていた。こんな日がずっと続くと信じていたあの頃に精一杯かき集めた、もう戻れない過去の狂おしい記憶がさざ波のように押し寄せる。
――――口づけが八戒の瞼に落とされる。出会った頃の少女の姿で。
笑った顔も、怒った顔も、不安な顔も、腕の中だけで見せた切ない顔も。すべて今も八戒の中に生き続けている。八戒の口元に微かな笑みが浮かんだ。雨の晩には珍しく、安らかな眠りが彼を包み込もうとしている。
「・・・・泣かないで、花喃」
無意識のつぶやきがこぼれ、そして、八戒は静かな寝息を立て始めた。夢の中で囁く声に耳を澄ませながら。目が覚めれば忘れてしまう夢だけれども。
目を閉じて、時の流れを遡れば、いつだって私はそこにいる。
そう、いつでも二人きりになれるから。
だから怖がらないで。すべてを時にゆだねて。
私がいなくても平気な振りくらいできるでしょう?
振りをしているうちに、そのうち本当に平気になる日が来るから。
それでいいの。―――またきっと会える日が来るから。
静かな眠りは、しかし、やがて破られる時を迎える。生きている限り、当たり前のことではあるが。
「・・・っかい! おい八戒! 生きてんのか!」
激しく揺さぶられて、八戒はぱちりと目を覚ました。
「・・・・・・ああ、悟浄、おはようございます」
にっこりと朝の挨拶をすれば、悟浄はなぜかその場にへたり込んでいく。
「おはようございます、じゃねえだろ。今何時だと思ってんだよ。・・・・とっくに昼過ぎてンだろ」
八戒は驚きに目を丸くし、弾かれたように身を起こした。眠れようが眠れまいが、八戒の起床時間は常に同じである。ここまで大胆に寝過ごしたのは初めてであった。
「すみません。・・・・なんだかよく眠れちゃったみたいで」
首をすくめてそう言うと、今度は悟浄が驚いたようだった。しかし、目を見開いたその表情もつかの間、悟浄は床にへたり込んだまま、片手に顔を埋めてクツクツと笑い始めた。
「・・・・ククククッ、寝てたって? ・・・脅かすんじゃねえっての、ったく」
心からの安堵が溶けだしたような笑いは、八戒の笑みも誘う。
「本当にすみません・・・・・、って、悟浄、ずぶ濡れじゃないですか」
その通り、悟浄は頭のてっぺんから爪先まで濡れていない箇所はない状態であった。
「そ、そりゃそうだろ、お前。・・・クククッ、外は雨だぜ、気づいてねえの?」
言われてみれば、雨だれの音が聞こえてくる。顔を上げた悟浄は、八戒のぽかんとした顔が余程ツボに入ったらしく、おかしくてたまらないといった様子でさらに笑っている。
「クソ坊主とサルがえれぇ権幕だったから何かと思えばよ・・・・ククッ」
「三蔵と悟空がどうかしたんですか?」
そういえば、およそ良いとは言えない機嫌で二人は帰って行ったのだったと八戒は思い出した。
「いや、それがな、昨日帰ろうとしたら森の外で出くわしてよ・・・・クククッ、今夜は八戒を一人にしてやれ、邪魔すんなときたもんよ」
おかげでもと来た道を引き返し、夜っぴて飲む羽目に陥った、と悟浄は笑う。曖昧に微笑み返しつつ、八戒は内心首をかしげた。彼ら二人の昨日の様子からはちょっと想像できない台詞である。しかも、八戒がどうなるか、まるで分かっていたような物言いは奇妙としか言いようがない。
しかし、と八戒は考え直した。そんなことより、今は目の前にある事を優先すべきである。
「悟浄、そのまんまじゃ風邪ひきますよ。まずはお湯を浴びてきてください。その間に何か温かいものを用意しますから」
もちろん床だって後で掃除しなければ、と八戒が思った途端、思い出したように、悟浄はくしゅんとひとつクシャミをした。
二人の目に映らない少女は、八戒の首に後ろから腕を回し、微笑みながら彼の髪に頬を埋めていた。
数日後、秋風の吹く気持ちの良い晴れた日に八戒は慶雲院へと向かっていた。悟空に算数を教えるためであり、三蔵に顔を見せに行くためでもある。悟空の教師役は八戒の趣味のようなものだが、三蔵への面会は彼にとって明確に義務であった。何と言っても三蔵は八戒の監督役である。三蔵自身はそんな役目はどうでもいいと言わんばかりの態度だが、それでいて八戒が何か言えば反応するし、その行動を観察している風がある。いや、ただ観察しているだけではないのはとっくに明白であった。それが嫌かと問われれば、八戒は首を横に振るだろう。
「こんにちは」
三蔵の執務室の扉を叩いて入ると、いつもの通り悟空が待っていた。しかし、三蔵の姿はない。
「三蔵は出かけてるんですか?」
何の気なしに尋ねると、悟空は気まずそうな顔をした。視線が宙をさまよっている。
「・・・・ううん、ちょっと煙草吸ってくるって」
どうしたのだろうか、と八戒は訝った。なんとなく、三蔵が意図的に席を外した気がするが、理由が分からない。とはいえ、深く悩んでも仕方ない、と八戒は授業を始めることにした。そろそろ掛け算から割り算へと話を進めていいころであった。
「まあ、始めましょうか?」
「おう!」
三蔵はバカ猿などというが、悟空の頭は悪いわけではない。興味さえ湧けば意外に吸収は早いのだ。問題は、彼の気を逸らさないようにすることである、と八戒は教師としての顔を作った。
そして、しばしの時の後、持参したおはじきと菓子を使っての授業は滞りなく終わりを迎えた。お菓子は八戒が淹れた茶とともにおやつとして悟空の腹に収まった。普段であれば、三蔵にもつまんでもらうところであるが、結局、彼は「煙草を吸いに」行ったまま戻ってこない。
「じゃあ、僕はそろそろ帰りますね」
「・・・なあ、八戒。・・・・えーと、・・・・八戒は大丈夫だよな?」
八戒が悟空に別れを告げると、悟空は少し困ったような顔で、遠慮がちに尋ねてきた。常に真っ直ぐな悟空にしては珍しいことである。
「何がですか?」
きょとんとして聞き返すと、悟空はますます困惑した顔となる。
「うん、俺は八戒はだいたい大丈夫だと思うし、あんま心配いらねーって思うんだけどさ」
悟空の目は八戒を見ておらず、何か違うものを見ているようだ。たとえば、八戒の後ろに誰かが立っているなら、こんな視線になるだろう。しかし、室内には八戒と悟空の二人しかいない、はずだ。・・・・それとも?
「・・・誰としゃべってるんですか?」
訳が分からず、悟空の目を覗き込むと彼は少々慌てたようだ。
「いやっ、べ、別に誰でもねえしっ! なんか、八戒いつもより元気そうかなってさ!」
明らかに何かを誤魔化そうとしているようだ、と八戒は判じたが、邪気のない悟空を追及するのは躊躇われた。そもそも「八戒はだいたい大丈夫」との言葉は、彼の心を暖めこそすれ、痛みをもたらすものではない。
「・・・それは、ありがとうございます。・・・・・じゃあ、三蔵によろしく」
最後は躊躇いつつ付け加えたが、悟空は嬉しそうに笑った。
「うん、またな!」
悟空がいつもより大きく手を振っているのが、八戒の印象に残った。
秋の日の日暮れは早い。まだ空は明るいが、じきに夕焼けの赤が広がることだろう。
三蔵は山門に近い大木の陰で煙草を吹かしていた。すると、慣れた気配が近付いてくる。
「三蔵、隠れるんならもっとうまくやらないと」
憎まれ口が妙に似合う男である。そして、目下のところ、それ以上に腹の立つ女を背中に抱えている男と呼んでも良い。三蔵は木の陰から足を踏み出した。
「人聞きの悪い言い方すんじゃねえよ。・・・・・帰るところか」
女の「あっかんべー」はどうにか見ない振りをしてやり過ごし、三蔵は尋ねた。
「ええ、はい。・・・・・授業も終わりましたし。ほかにお話ししてくださる方もおられないようですし」
朗らかな中に険を含ませた言い方が三蔵の口の端を吊り上げさせた。雨に降られてしょぼくれているより余程マシである。背中の女は相変わらず三蔵にガンを飛ばしているが、何か害を加えるつもりはないらしい。そこでふと、三蔵は仏心を出した。仏に仕える身としては誠にふさわしい行いであるが、事この最高僧にとってはかなり珍しいことである。むしろ魔が差したといった方が事の実態には近いかもしれない。
「急がねえなら、ちょっとついてこい」
「え・・・? ああ、はい」
八戒のみならず女も驚きの表情を浮かべたことに、三蔵はわずかな満足を覚え、目的の場所に足を向けた。慶雲院の山門をくぐり、街とは反対側に歩き出した三蔵を追う八戒は、どうやら三蔵がどこへ向かっているか分かったようだ。
分からないのは女だけである。そのムッとした雰囲気が背中越しに伝わり、三蔵は密かに眉間の皺を伸ばした。
ほどなくして二人、いや三人がたどり着いたのは、慶雲院の別院である。斜陽殿での裁きを受けた後、諸々の手続きのために八戒が滞在していた場所であった。ここを出ていくとき、完全に悟能は消え八戒が代わりに出現したという意味で言えば、悟能最期の地と言っても良い。ただし、あの頃、花も樹も建物も端正に保たれていた別院は、見る影もなくなっていた。まったく手入れがされていないどころか、夜盗にでも入られたような荒れぶりである。しかも、三蔵が結界を解かねば敷地に入れないようになっていたことに、八戒は驚きを隠せない様子であった。
中に入ったところで結界を結びなおした三蔵に、八戒は尋ねた。
「いったいどうしたんです? あんなに綺麗だったのに」
三蔵は濡れ縁に腰を下ろし、八戒もその隣に座った。女は相変わらず八戒の背中から離れない。
「・・・人手が足らなくてな」
簡潔極まりない返事をし、三蔵は短くなった煙草を足元に落として踏み消し、新たな煙草を袂から取り出して火を点けた。八戒は今一つ得心がいかない様子だが仕方ない。三蔵のあずかり知らぬところで何かが動いており、それゆえの人手不足であるため、彼にも説明のしようがない。
遠くに赤い夕陽が落ちてゆく。
「・・・三蔵」
言いよどんだ八戒に目をやると、彼はどう切り出したものか迷っているようだった。
「聞いてもいいですか?」
何を話題にするのか、みなまで聞かずとも見当は付く。したがって、三蔵はかぶりをふった。
「・・・・・・いや、聞かれても答えようがねえぞ」
正直なところであった。答えが八戒に与えられるとすれば、それは自分の口からではなく、女からであるべきだ、と三蔵は眉間に皺を寄せつつ考えた。
――――託せる人がいるか見届けてこいって言われたの。
三蔵の思考を読んだかのような答えが降ってきた。視線をちらと投げれば、女は面白くなさそうな顔をしている。勝手に会いに来たわけではないと言いたいらしい。だから、あくまでも八戒に姿を見せる気はない、ということでもあろう。強情なところは姉と弟でよく似ている。
哀れな八戒は何も気づかない自分に気づいているのだろうか。
「悟浄に笑われました。・・・・・僕が雨の日にぐっすり寝こけて寝坊するなんて信じられないって」
八戒は目を伏せ、クスクスと笑う。
「貴方と悟空は、僕が静かに過ごせるよう考えてくれたみたいですし、・・・・・なんだか」
言葉をいったん切って、八戒は少し考える様子を見せた。
「・・・・僕にはもったいないみたいで」
荒んだ本音が透けて見える穏やかさで、八戒は呟くように吐き出した。三蔵は、自分に向けられた女の顔が険しくなっていくのを視界の端に捉えていたが、睨まれたところでいかんともしがたい。これは八戒ひとりの、彼だけの問題だ。余人の手出しすべきことではない。
八戒は視線を上げたものの、三蔵の方は見ずに言葉を継いだ。
「・・・・・そういえば、ここでは一人でしたから、考える時間がたっぷりありました」
誰に言うともなくといった口調で、八戒は言葉を紡ぎ続ける。
「独りぼっちになったんだなあ、って」
――――彼を独りにしないで。
女の声が夕日に溶けていく。
「僕の人生から誰もいなくなったんだなあ、って、そう思いながら過ごしてました」
八戒が淡い笑みを浮かべるその向こうで、女の頬に大粒の涙が流れる。それだけ想いを込めて悲しむくらいなら生き返ってきてみやがれ、と三蔵は鼻を鳴らした。
「別にお前だけの話じゃねえだろ。・・・・・・誰だろうが、所詮、人は独りだ」
言い切れば、八戒は小さく笑った。坊主らしい綺麗事を言うとでも思っているのだろう。生憎、本音だ、と三蔵は顔を顰めた。
――――あなたも独りは嫌なくせに。
女の声は意地悪く響く。しかし、三蔵は煙草を深く吸って、それを流した。姉弟そろって実に忌々しい連中だと心中で罵りながら。
「僕だけ年を取っていくんですよねえ、花喃はあの頃のままなのに」
八戒の台詞は、透けた女の心にも刺さったようだ。
――――ごめんね。・・・・・・・・もう遅いけど。
今さら何を言ったところでどうしようもあるまい。遠ざかっていく過去は変えられはしない。ただ、分かり切った繰り言を口にしたくなる日というのもあるのは三蔵もよく知っていた。死人の繰り言まで聞こうとは思いもよらなかったが。
三蔵は袂を探って目当てのものを取り出すと、やる、と八戒に向けて放りやった。八戒は驚きながらも、それを過たずつかむ。
「うわ、え? なんですかこれ?」
見て分からんか、と三蔵は口の端を吊り上げた。八戒が手にしているのは火酒の小瓶である。気付けにも、あるいはささくれ立った神経を丸めるのにも適している。悪くない酒だ。
「呑んでいけ」
三蔵は顎をしゃくって促した。
「そんな顔で帰ってみろ、河童が怒鳴り込んできかねん」
八戒は小瓶を持っていない方の手で頬を擦った。自分で気づいていなかったらしい。
「そんなに酷い顔ですか・・・・?」
この点については、三蔵と女は完全に一致できた。答えはYesである。三蔵の目つきに答えを読み取り、八戒は火酒の封を切った。
「・・・・・・・・ありがとうございます」
八戒がゆっくりと一口飲んだところで、女の身体が透明度を増し、夕闇に紛れはじめた。どうやら時間切れらしい。
――――さようなら。
女は八戒の頬に柔らかく口づけ、三蔵に向かっておもむろに最後の「あっかんべー」をし、そして満足げに、少し寂しげに笑って消えて行った。
残されたのは生きている二人だけ。
少し赤みの差した頬で、八戒は薄く笑う。消えた気配にも気づかずに。
「・・・貴方の言うとおり、所詮、誰でも人は独りきり、だとすると・・・・」
八戒は二口目を口に含んで、少し首をかしげた。
「僕らはみんな、・・・・・貴方も僕も・・・・・・、おなじ独り同士、ってことになりますね」
「・・・・・いちいち理屈っぽい奴だな」
三蔵は口をへの字に曲げたが、八戒の言うことを否定はしなかった。確かに一理はある。それぞれ違う何かを抱え、ただ偶然、同じ場所にいるだけであるとしても。
八戒は、ごく自然な所作で小瓶を三蔵に差し出した。
「独りきりが二人、っていうのも変な言い方ですけど」
三蔵は何を考えることもなく小瓶を受け取り、一口含んだ。抱えた何かは分け合えずとも、酒なら話は別である。ゆっくり飲み込めば、熱い塊が胃に落ちてゆく。
「・・・・ほざいてろ」
もう一口飲んで、三蔵が八戒に酒を差し出すと、彼の顔にはいつもの微笑が浮かんでいる。河童の殴り込みはどうやら避けられそうだ、と三蔵は僅かに口元を緩めた。
辺りは急激に暗くなってきた。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものである。
――――独りきりの、二人きり。
どこからともなく響く囁き声を、三蔵は白い煙に紛らわせる。
喉を焼く火酒の小瓶は、空になるまで二人の間を行ったり来たりすることとなった。
|
―了―
|
「竹箆(しっぺい)」様にてキリ番ニアピン69999hitを踏んだ時のリクエスト品♪
リク内容は『花喃姉様が三蔵に発破を掛ける話』・・・花喃姉様大好きなもので(^_^;)。
世界広しといえど、三蔵様に「あっかんべー」が出来るのはこの人くらいでしょう(笑)。
anpavc様、本当に有り難うございました! |

「常連です!」という方も「自分行動範囲狭いモンで;」という方も、読んだらぽちっと↑
同志の輪を広げましょう♪ |