水際に光る
| 小さな舟を漕いでいる。みずうみのような静かな場所で、朝の光がなにか清潔な、それでいてまどろみの中にあるようなとろりとした影を淡くつくりだしている。櫂を動かす僕の向かいには彼女が座っていて、半分くらい身体を乗り出していっしんに水面を見つめている。そこかしこに森の匂いがし、風がさらさらと髪を揺らした。 彼女とこうして舟に乗ったのはいつのことだっただろう。僕らの住処の近くには小さなみずうみがあり、そこに誰かが捨て置いていったのか、古く小さなボートがゆらゆらと水面に揺れていた。夏のまだ涼しい朝には二人でよくそこへ出かけた。貧しい暮らしだったけれど、彼女はいつもやさしくほほ笑んでいて、ふたりの暮らしは花びらの上に光る朝露のような、清らかでどこまでもかわいらしい生活だった。 サンダル履きの素足の白さをまぶしく思ったことがなつかしい。すべて今は遠い日々だ。その断片はぬるく、甘くて、たとえば暑い日、庭に撒いた水だとか、抱き合ったあとのソーダ水の味にも似ている。そんなことをぼんやり思い出すうち、ぱちゃぱちゃと音が聞こえ、ふと見れば彼女が水に手を遊ばせていた。 「そんなに身を乗り出したらあぶないよ」 「だいじょうぶよ」 彼女は優雅にほほ笑み、それから、ああきっと泳いだら気持ちいいわね、と続けた。そうしてなんのためらいもなく、水のなかへ降りていく。とぷんと白い身体が沈み、胸の上までが水に浸かった。 「そんなことしたら、戻れなくなってしまうよ」 僕は焦ってそう言ったが、彼女はやっぱり笑っている。そうして、すうっと舟の上にいる僕のところへ寄ってくると、腕を上げて頬に触れた。白い肘や、手首や指先からもしずくを滴らせ、それをつかまえようとするより先に、彼女はすい、と水を蹴った。 「花喃!」 僕は慌てて櫂を握る。 「待って!」 待って。行かないで。 水の中を、まるで人魚にでもなったようになめらかに、彼女は僕のことを振り返りもせずに泳いでゆく。 目を開けると身体ぜんたいがじっとりと汗ばんでいた。 一瞬、どこにいるんだろう、と混乱した。けれどすぐに格子の嵌った窓が目に入り、ああそうか、とすぐに思う。僕はここで沙汰を待っているのだ。 独房と呼ぶにも牢と呼ぶにも、あんまり簡素に過ぎたけれど、僕は罪人なのだから確かにここは檻なんだろう。逃げようなんてつもりは、はじめからない。彼は僕のそういう心理を見抜いて、だからここへ僕を放り込んだのだと思う。手枷も足枷もなにもなく、拍子抜けするほどだったが、そうしたものをつけて喜ぶような人には思えないし、不要だと彼が判断したのならそれで構わなかった。僕にはここを出ても、行くあてなどないのだし、僕を待つ人はもういない。 のろのろと身体を起こすと頭の芯が淡く痛んだ。片目を潰してしまったせいで、視野が極端に狭い。首ごと少し左に向けると、水差しが見える。さっきまで見ていた夢のせいか、喉が渇いているような気がした。 キイ、と小さな、しかしよく響く音がして誰かの入って来る気配がする。目を凝らさなくともすぐにわかった。あのひとだ。結果、水差しに伸びていた手は何も掴まないまま宙に浮く。顔を向けるとやはり彼が入ってくるところだった。手に鍵の束を持って、朝焼けに目映いほどだった彼の金色の髪は、ここではいくらかくすんで見える。 「おはようございます」 おそらく朝だろう、と見当をつけて僕は言った。部屋の中が明るかったからだ。彼はそれには答えず、鍵の束を持ったままこちらに近づいてきて、「調子は」と言った。 「特に変わりなく」 僕が答えると、彼はかたわらの椅子を引き、それからすっと目を細めて僕を観察するように見た。 「熱でも出たのか」 「え?」 「汗をかいてる」 首のあたりを目で示される。そうだった、と思い出した。さっきまで僕は眠りの中にいて、夢を見ていた。水の夢は風邪の前兆だなんて言うから、あれは熱が見せたものだったのだろうか。しかし僕の身体は汗をかいている以外には、どこも眠る前と同じだ。痛くもないし、怠くもない。強いていえば頭の芯がわずかに痛むが、これだって一昨日もその前もあった痛みだ。 「少し……、夢を見て」 「そうか。具合が悪くないならいい」 「あの、お湯を少し、いただけますか?」 体を拭きたくて、と言ったら彼は僕を一度じっと見て、それからすぐに立ち上がると扉を開けた。どうやら外にいた人間になにか言いつけたらしく、いくらもしないうちノックの音がした。 盥の中には湯が入れられていた。受け取れというように彼が僕を促したので、僕はそれに手を伸ばした。手渡された盥はなんだかひどく重かった。僕は少しバランスを崩し、なんとか持ち直して彼を見た。椅子に座った彼が好きにしろというような目を寄越したので、僕は背を向けて、着ていたシャツの釦を外す。傷のある体なんて、見て気持ちの良いものじゃないだろう。それでも彼は監視のためにここに来る。申し訳ないとも思うが、いずれ会わなくなる人だ。それにそれが仕事なのだから構わないだろうとも思っている。 なにかがちゃがちゃ音がして、鍵の束を無造作に投げ出したらしい。ここへやってくる彼は、なぜかいつもそれを持て余しているようで、この仕事が嫌いなのかもしれない。 「傷の具合はどうだ」 湯に浸した布をかたく絞って順に体を拭いていく。汗でべたついた肌がさらりとした手触りに変わると、いくらかさっぱりした。風呂に入りたいなどと贅沢を言える立場ではないからこれで充分だ。それに待遇は想像したよりも遥かに人道的だった。 彼の言葉に僕は顔を上げ、「すっかり良くなりました」と答えた。罪人の傷の具合など、僕にはどうでも良いことに思える。しかし仏道に帰依する彼の、それが慈悲なのかもしれない。鍵の束を持て余していることも、そのうちのひとつなのだろうか。そもそも寺院は罪人を裁くための場所ではないから、前例がないのかもしれない。いずれ、僕にはいくら考えてもわからないことだ。 そうか、と彼は言って少し黙り、それから「お前の今後だが、」と言った。 僕は布を置き、シャツの釦を留め直すとそれから彼のほうを向いた。中途半端に聞いて良いような話でないことはわかる。僕が身なりを整えて身体をそちらへ向けると、彼は言った。 「少し手間取ってる」 僕はその言葉の意味をはかりかねた。しかし罪人をひとり殺すのにはさまざまな手続きがいるのかもしれないと思いなおす。それで僕は黙って頷いてみせた。 「まあいずれ決まるだろうから……」 「ええ」 「変な気を起こすなよ」 それから彼は必要なものはあるかと僕に聞いた。僕はいつものように何もないと答えた。罪人にそんなことを訊ねるのもおかしな話だ。彼は投げ出していた鍵の束を取り出すと「また明日来る」と言って立ち上がった。 「それは後で取りに来させるから置いておけ」 盥に目をやった彼はそう言うと部屋を出て行く。僕はそれをぼんやりと見送った。変な気を起こすつもりがないことなど、彼が一番良くわかっているはずだ。だからこの部屋に僕を置いているんだろう、きっと。手枷も足枷も、檻ですらないこの部屋に。 眠るといつも、夢を見た。 それはあの幸福な日々の断片であったり、あるいは血の色に塗れていたり、子供のころのなにげない日常だったりもしたが、そのどれもが夢らしく、彼女はいつもそこにいた。 彼女はよく笑った。美しく、可憐で、どのときも輝いていた。 彼女と出会うまでの僕は、あらゆる感情を皮膚の下に無理やり押し込め、誰に対しても誠実でなかった。そうすることに慣れすぎていたし、誰かを愛することは恐ろしく、またしたこともなかったからやり方もわからなかった。 あなたを見ていると私はこわい、と彼女はたびたび言った。いつもさみしそうで、ひとりで、色んなことをあきらめてきたのね。かわいそうで、さみしくて、私、それがこわいの。 僕はそのたび、君がいれば僕はひとりじゃないと答えた。本当に真実そうだったのに、そういうときにはいつも、彼女は泣き出しそうに笑っていた。彼女が愛を僕に教え、僕も彼女を愛していた。それなのに彼女は僕をかわいそうだと哀れんだ。 「あなたは、ときどきどこかへ行ってしまいそう」 彼女が言う。 いいや、行くものか。だって行きたい場所なんかひとつもない。君のそばにいることだけが、僕の望みだ。 「でも、もう行く場所がないのね」 月の明かりが彼女の顔や肌を照らしだす。君が僕の世界だ。それがすべてだ。それでも彼女は、月の光を頬や肌や髪にも浴びて、悲しげにほほ笑んでいる。 「悟能、ごめんね」 ひとりにしてしまって。 彼はその日、銃を持って現れた。僕はさすがに驚いたが、彼は「あれが煩くてな。殺さねえから安心しろ」と言った。それから簡素な木製のテーブルの上にそれを置き、すぐに部品を外しはじめた。 どうやらあれ、というのは彼と一緒にいた少年のことで、彼は銃の手入れのためにここを訪れたらしかった。なんにでも興味を示す年頃のように見えたから、たしかに危なくてろくに手入れもできないだろう。それにはこの場所はうってつけだと彼は考えたようだった。なにしろここは檻なのだし、彼以外には誰も来ない。食事を置いていく係でさえ、僕とは目も合わせず、そそくさとやってきてはまた去っていく。きっと僕のことがおそろしいのだろう。 殺すための道具を持ってきて殺さないからと言うのも妙な気がしたし、罪人を放り込んでいる部屋を選ぶのも変だと思ったが、なによりそういうものから遠ざけておきたい相手がいる、ということに僕は驚いた。幼い子に包丁を持たせないのと同じで、別段おかしな考えではないのに、そんなふうな当たり前の感情さえ忘れていたからだ。 彼の銃は、よく使い込まれているように見えた。あの夜は必死で、そのことに気が付かなかった。僧侶と銃という組み合わせはこれ以上なく異端なのに、その鈍い銀色や、変色した木製のグリップは彼に似合っているようにも思える。つぎつぎと外されて、布で拭かれていく部品を眺めていたら、「珍しいか」と彼は言った。 「あ、ええ……。あまり目にするものではありませんから」 「そうだろうな」 彼は少し笑った。 「もう長いんですか?」 「これを持ってか?」 「そんなふうに見えたので」 僕がそう答えると、「お前が裁かれるなら、俺だって裁かれてしかるべきだ」 彼はつまらなさそうに言い、今度は分解した部品を迷うことなく組み立てはじめた。 「それは、護身用では」 「俺が一人も殺してないって?」 彼は僕の言葉を鼻で笑った。 「めでてえ頭だな」 鈍い銀色はつやつや光って、それを手品のように彼の白い手が組み立てていく。このひとも誰かを殺したのだろうか。いったいそれはいつだったんだろう。なんのために。そう思ってから、けれどきっと、僕のそれとは違うだろうとも思う。 「なにか、わけがお有りだったのでは……ご家族とか、その、」 僕が言うと彼は「そんなもんいねえ」と言った。 「お前の戸籍を調べてるが、孤児だったんだな」 「はい、ずっと施設で世話になって」 「俺も似たようなもんだ。よくある話だ」 「あの髪の長い子は」 その子こそが、彼が銃から遠ざけておきたいと思う大事な子なのだろうと思って僕は訊ねた。すると彼一度手をとめ、「あれは拾った。行きがかり上、仕方なくそばに置いてるだけだ」と言った。その口調がずいぶんほどけて優しげだったので、僕は思わず彼をじっと見つめてしまった。視線に気がついたのか、彼が顔を上げる。なんだ、と言いたげに重たげな睫毛がまたたき、その下の水晶のような目を向けられたので、僕は慌てて目を逸らした。彼の目はおそろしいほど透き通っている。澄んだ水のようで、うっかりするとそこへ沈まされてしまいそうでこわかった。彼はしばらく黙っていたが、やがてふいに「知ってるか」と言った。 「この何年もずっと、妖怪の子供が産まれる数が減ってる」 「え?」 なぜそんな話をはじめたのかがわからなくて聞き返すと、彼はふたたび部品を手に取り、しかしそれをどこかへ嵌めるでもなく、手の中で弄びながら言った。 「このところ、妖怪が突然人を襲うようになったのを知ってるだろう。きっと、不憫だと思うんだろうな。堕胎なのか、産まれたところでどこかへ埋めちまうのか……勝手なことだ」 彼はそれから、 「殺しに良いも悪いもあるか」と吐き捨てるように言った。 「でもそれは、」 「理由なんてなんでも一緒だ。事実にはなにも変わりない」 それからようやく手にしていた部品を嵌めると銃を手に取り、明るすぎるくらいの瞳で僕をまっすぐに見つめた。 洗面器の中に張られた水に手を浸すと、とぷんと手首までが沈む。指先を少し動かしてみると、ゆらりと水面が揺れた。 あれから少し時間が経って、おそらく二日三日のことだろうと思うが音沙汰がない。なにがしかの、彼が言う手続きに手間取っているのかもしれない。なんにせよ、そのうちにまたやって来るのだろう。白い部屋は今日も静かだ。窓の格子の影が、壁に映っているのが見える。 子供塾で働いていたころ、子供が一人死んだことがある。悪い病気にかかって、母親がやってきて、しばらく休みますと言い置いて言った翌週、その子は死んだ。僕は偶然その埋葬に立ち会った。子供の家は、どこにでもある貧しい家庭だった。その子の病気は難しいもので、薬が高価なのだとあとで知った。母親は土で汚れた手で子供を掻き抱き、もうこれ以上この世に悲しいことは有りはしないというように酷く泣きながら、「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。そのときそこにいたすべての人が、ああ、きっとこの母親は自分の子供を殺してしまったのだと、間違いなく理解していた。しかし、誰も責めることはできなかった。かわいい我が子が苦しんでいても、貧しさゆえに薬を買うこともできない。そういう胸を刺すようなせつなさと病と、絶望に似た貧しさとが、彼女とその家族を蝕んでいた。 彼は、その貧しくかわいそうで不憫な母親が犯したどうにもならない罪と、僕の犯した罪とを、同じものだとでも言いたいのだろうか。 ――俺が一人も殺してないって? あのひともなにかのために、誰かを殺したのだ。それがどんな理由でも誰かを殺した、その事実に変わりはないのだと、彼は確かに言った。 耳の奥で雷鳴が響く。嵐の夜がすぐそこにある。目を閉じると身体が濡れ、血の匂いがいっぱいに僕を満たす。うるさくて耳を塞げば、突然、あのひとの声がした。 朝焼けとかすかな硝煙の匂い。白い着物、かがやく黄金色の髪。まぶしくて目を開けていられない。どこかで水の音がする。ちゃぷちゃぷと誰かが水を跳ね上げて、指先を遊ばせている。ああ、そこへ行きたい。いますぐ僕も、冷たい水に身体を浸し、どこまでだって泳いでいきたい。それなのにこの明るい部屋から、僕は一歩も動けない。あの美しい声が、水の音を消すように響く。朝焼けが迫ってくる。雷鳴を食いつぶし、部屋の中を染め上げようとしている。 僕はそれらの残像を振り払うように洗面器に顔をつけた。いっぱいに張られ、ゆらぐ水が僕の息を重くする。目を開けると、その中を僕の吐き出した泡がたちのぼっていくのが見えた。もうなにも考えたくない。花喃。じきに君のところへ行ったら、この泡も見えなくなるのだろうね。 小さな舟を漕いでいる。みずうみのような静かな場所で、朝の光がなにか清潔な、それでいてまどろみの中にあるようなとろりとした影を淡くつくりだしている。櫂を動かす僕の向かいには彼女が座っていて、半分くらい身体を乗り出していっしんに水面を見つめている。そこかしこに森の匂いがし、風がさらさらと髪を揺らした。 そんなに身を乗り出したらあぶないよ、と僕が言ったら、だいじょうぶよ、と彼女はほほ笑んだ。それから、ああきっと泳いだら気持ちいいわね、と続けて、そうしてなんのためらいもなく、水のなかへ降りていく。とぷんと白い身体が沈み、胸の上までが水に浸かった。そんなことしたら戻れなくなってしまうよ。僕はなかば焦ってそう言うのに、彼女はやっぱり笑っているだけだ。それはへんに清らかな明るさだった。彼女はすうっと舟の上にいる僕のところへ寄ってくると、腕を上げて頬に触れた。白い肘や、手首や指先からもしずくを滴らせて。そうして彼女はもう一度笑うと、今度はすい、と水を蹴った。 「花喃!」 声を上げるが、彼女はすいすいと泳いで行ってしまう。 「待って!」 僕の声は届かないのだろうか。 彼女の姿はどんどん遠ざかり、あっと言う間にちいさな点になってしまう。必死で舟を漕ぐが、ぜんぜん追いつけやしない。 「花喃!」 森の中に声がこだまし、水面がちらちらと揺らぐ。彼女は一度も振り返らない。置いていってしまうのか、君は、僕を。そこにしか居場所がないのに。 あなたは、ときどきどこかへ行ってしまいそう。 でも、もう行く場所がないのね。 違う、そうじゃない。君が僕の世界だ。それがすべてだ。 悟能、ごめんね。 ひとりにしてしまって。 「おい!」 突然飛んできた低い声にはっと目を開けると闇の中に彼がいた。部屋の中はまっくらで、どうやら今まで眠っていたらしい。いつからこうしていたのかわからない。僕は椅子に座ったままで、机に突っ伏していた。すぐそばに彼の白い顔がある。そこを月明かりがぼんやりと照らし出している。慌てて倒していた身体を起こすと、あちこち関節が軋んだ。 「寝るんなら布団で寝ろ」 いつやってきたのだろう。そう思っていると、「食事も摂らずにいるっていうから来てみれば」と彼は苦々しく言った。 「すみません……お手間をかけさせて」 「まったくだ。食事くらいきちんと摂れ」 彼はそう言うと、袖から何かを取り出した。暗くてよく見えなかったが、すぐに燐寸を擦る音がし、火がついて、それから煙の匂いがした。そういえばこのひとは煙草を吸うんだった、と思ってから、なぜこのひとはこんなにも僕のことを気に掛けるんだろうと思った。もしかするとなにか事情があって犯した罪を、僕を見ていると思い出すのだろうか。ほんの何日か前にした会話がよみがえる。このひとは僕とは全然違う人間だ。 彼はふうっと煙を吐くと、窓を開け、格子の隙間から手を伸ばして灰を落とした。あの、と僕は声を上げた。 「この前、あなたが言ったことですが、」 「なんの話だ」 「殺しに良いも悪いもないって」 すると彼は無言のまま見返してきた。あんまりまっすぐ見つめられるのでおそろしいほどだ。やましさも、後ろめたさもなにもない。ただ僕を見ている。僕はどうにか言葉を絞り出して言った。 「僕にはやっぱり、そうは思えません……」 「お前がどう思おうが、それが真実だ」 「でも!」 でもきっとあなたのそれと僕のそれとは違っている。 「それに、本当は……僕には罪悪感なんてないんです」 僕は彼女がいさえすればそれでよかった。だから僕から彼女を奪ったすべてのものが許せなかった。彼女が返ってくるのなら、何人殺したって構わなかった。世界中の人の命を犠牲にして、彼女が戻って来ると言われたら、僕はきっとそうしていただろう。 でも、もう戻って来ない。永遠に彼女は戻って来はしない。 それなら僕が生きている意味はひとつもない。それは大勢の命を奪った罪を償う罰ではなくて、ただ自分のためだけだ。自分のために、僕は死にたい。この期に及んでどこまで我儘なんだろう。けれど、それだけが僕の望みだ。それ以外に何も欲しくない。 「そんなもん、なんの役にもたたねえ」 彼は僕の言葉を切り捨てると、短くなった吸い殻を窓の外へ放った。それからそこを離れ、ドアのほうへ向かう。どうやら話は終わりらしかった。僕はもう何も言えず、俯いたまま椅子に座っていた。鍵の束が立てる金属音がし、彼がドアノブに手を掛ける気配がする。 「守らなくていいものが欲しいんだ」 ぽつりと言葉が落とされた。それは今にも消えてしまいそうに小さく、今まで聞いたどの声よりも頼りなかった。僕は思わず顔を上げた。闇の中に白い法衣の裾がぼんやりと浮かんでいる。 「もう俺は、何も殺したくない」 彼の顔はよく見えなかった。 「沙汰が下りた」 やはり鍵の束を持て余し気味に無造作にテーブルへ投げ出し、それから彼は言った。三日後の午後のことだった。このところ陽気が安定しているらしく、雨も強い風もまったくない。部屋の中には場違いなほどうららかな昼の光が差し込み、彼の白い法衣を一際明るく照らしていた。 「猪悟能は死罪。だがお前が死ぬわけじゃない」 その中に放たれた言葉の意味がわからず、え、と聞き返すと彼は僕のほうを見て言った。 「悟能の戸籍は抹消する。その上でお前には新しい名前が与えられる。お前はその名前をもって、別の人生を歩んでいくんだ。つまり、」 生きろ、と。 彼はそう言っているのだった。僕は呆然としたままそれを聞いた。 「明日、斜陽殿で正式に裁きが下る。話はついているから形ばかりだがな。何か言いたいことは」 「いえ……なにも」 というより咄嗟になにも出てこない。そうか、と彼は僕を見ると、「詰られるかと思ったが」と言った。 「あっさりしたもんだな」 「……僕にとっては、これ以上なく重い罰です。死罪よりも」 僕は絶望に目を伏せた。このひとは、僕が死を望んでいることを知っていたのに、この裁きを決定したのだ。だとすれば、何を言えというのか。詰ったって責めたって、彼がそれを覆すとは思えなかった。 それきり何も言葉が出て来ず、やはりじっと黙っていたら、彼は予想もしないことを言った。 「お前の監督責任は俺が持つ」 「……え?」 「沙汰が下りれば自由の身だが、自殺しようなんて考えるなよ。俺に責任がある以上は、お前を死なせない」 なぜそこまで……僕は愕然として彼を見た。驚きと、絶望と、諦めとがないまぜになり、彼を見つめることしかできない。彼は軽く息をつくと、本当に唐突に「目を見せろ」と言った。脈絡のない言葉に思考がついていかず動けないままでいたら、彼は焦れたように椅子から立ち上がり、すぐそばへ来て僕の顔を上げさせた。頬に触れた指が冷たい。髪を撫でつけられ、額があらわになり、空洞になった眼窩を覗き込まれる気配がした。 「文句を言われないうちに言っておくが、近いうち技師が来る」 「技師?」 「そのまま市井に出すんじゃ体裁が悪いからな。義眼を入れてやる」 「……それも、責任の一環ですか?」 「お前がこの罰を受ける気があるのなら、両の目で見ろ。世界を」 世界だって? 僕はおそらくはじめて表情を変えた。 いったい世界に、なにがあるというのだろう。僕の世界はあの日壊れた。新しい名前を与えられ、新しい目を入れられたら、今までと見えるものが違うとでも言うのだろうか。壊れたものは壊れたきり、もうどうしたって元に戻りはしないのに。 「そんなもので、」 僕が言いかけた言葉を、彼はぴしゃりと遮った。 「そんなものでも、変わるんだ」 生きてさえいれば、必ず。 ああ、そうか、と僕は思う。 もう世界のどこを探しても、君はいないんだね。僕が生きているかぎり、彼女は手を離れて遠ざかっていってしまう。必死で握っていた、壊れた世界の断片ですら、僕は奪われるのか。なんてひどい罰なんだろう。その苦しみを与えるのがこのひとだなんて。 「俺はお前を殺さない。死なせもしない。絶対に」 彼はそう言った。 「憎みたかったら憎めばいい。今度は俺を殺すか?」 「そんなこと、」 出来るわけがない。 頬になにかが落ちた。雨垂れのようなそれは、しかし熱くて、そのことに気づくと僕の最後の砦は決壊した。つぎつぎ涙が滴って落ち、休む間もなく流れ出し、またたきをすれば光が散る。まぶしい。 「なぜ出来ない。殺しに良いも悪いもないと言ったろう」 「だって、あなたは」 だって、あなたは―― これが世界か。このひとが僕に与えた、これが世界なのか。 彼の手が肩に触れる。僕はもう耐えきれず、それに縋った。優しすぎて、あんまり甘くて、どこから手をつけていいかわからない。このひとが僕の罪をゆるさず、それなのに僕の存在をゆるす。明るすぎて、まぶしい。 「三蔵さん、」 僕は初めて彼の名前を呼んだ。一度呼んでしまったらつぎつぎ僕の唇からそれは零れ落ちた。彼の手が強く僕を抱き、壊れたレコードのように繰り返しつづける僕の唇を、突然遮った。あんまりびっくりしたので、僕は彼をぽかんと見上げてしまった。どうしたわけだか、彼は苦しそうな顔をしていた。 「お前を見ているとこわいんだ」 「どうして……?」 ――あなたを見ていると私はこわい。いつもさみしそうで、ひとりで、色んなことをあきらめてきたのね。かわいそうで、さみしくて、私、それがこわいの。 「どこか遠くに行っちまいそうで、でも、もうどこにも行く場所がなくて、あきらめきって、ひとりで、」 ――もう俺は何も殺したくない。 そうして僕はほんとうに言葉を失った。 白い頬が濡れて光る。それのどんなに眩しかったこと。 たったいま世界を与えた美しい人は、それきり声を詰まらせて、光る涙をたったひと粒、ほろっと零したのだ。 |
| ―了―
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| 「真夜中」様の2015年度38Day企画に乗っかってリクエストしたお作品。 リク内容は『慶雲院時代で馴れ初め』・・・この内容だけで香月のリクだと判る方には判っちゃうという(汗)。 タイトルのフォントまで美しかったので、こちらでも再現させていただきました。 みず様、有り難うございました! |
「常連です!」という方も「自分行動範囲狭いモンで;」という方も、読んだらぽちっと↑ 同志の輪を広げましょう♪ |