よく晴れた寒い日のことである。三蔵が書類を処理していると、執務室の窓を叩く音がした。見やれば、窓の向こうに八戒がいる。彼は肩に何やら鳥のような生き物を乗せていた。
「こんにちは」
窓を開けて執務室内で聞くべき挨拶を受け、三蔵は眉間に皺を寄せた。なぜそんなところに突っ立っているのかと尋ねると、八戒は苦笑を浮かべた。
「この子を連れたまま中に入ってはならんと言われまして」
ペット禁止だったんですね、このお寺、と八戒は肩を竦めた。杓子定規な奴もいたものだ。すでに寺の中をサルが走り回っているというのに、動物持込み禁止とは笑わせる。
「いいから入ってこい」
三蔵がそう言うと、八戒はくすくす笑って、貴方が出てきてください、と言い、道をあけるように身体を斜めに引いた。
「ちょっとお見せしたいものがあるんです」
面倒くせえ野郎だと毒づきながら三蔵が窓枠に手をかけたその瞬間である。八戒の肩に乗っている奴が大きく羽を広げた。陽光に輝く白い翼はまるで八戒の背中から生えているように見え、今にも飛び立ちそうに大きく動いた。それに目を奪われた三蔵の動きが一瞬、止まる。
「ジープ、大丈夫ですよ。取って食う人じゃありませんから」
ペットを宥める呑気な声で三蔵は我に返った。
「そいつはいったい何だ」
窓枠をひらりと越えて外に出た三蔵が尋ねると、八戒は、竜です、たぶん、と答えた。
「どういう意味だ」
三蔵の眉間に寄った皺を意に介さず、八戒は肩の上のペットの首筋を撫でている。
「それを今からお見せするんですよ」
その後、寺から出て適当な空き地まで行き、三蔵は八戒の言葉の意味を理解した。なるほど、内燃機関付きの四輪駆動車に変化する生き物が純然たる竜であるわけがない。
「遠出をするときは言ってください。ジープの体調さえ良ければ送り迎えできますから」
ジープは二人を乗せて長安郊外の道を走る。どうやら八戒は、ときおり三蔵が徒歩で遠方に出かけるのを気の毒に思っていたらしい。余計なお世話だ、との言葉が三蔵の口から出かけたが、八戒が速度を落とさずに急カーブを曲がったため舌を噛みそうになり、その機会を逸してしまった。
「たまにはドライブも楽しいですし」
今度は悟空も乗せてもいいですよね?と八戒は尋ねる。三蔵としては、ガキが寝ていたため置いてきただけのつもりだったのだが、八戒はまずは保護者である三蔵に安全を確認させようという腹だったようだ。罪人として監督を受ける自分の立場を意識してのことだろうが、気の回しすぎである。それに。
「あんまりサルを甘やかすな」
寄せられる好意にひどく弱い悟空に、過度の温情は禁物である。坊主になるとはとても思えない悟空は、いずれは寺を出て独り立ちしなくてはならないのだ。三蔵の極めて真面目な思考を他所に八戒は可笑しそうに笑う。
「じゃあ、貴方なら甘やかしてもいいんですか」
からかうんじゃねえ、と三蔵が顔を顰めると、八戒はいっそう面白そうに笑った。
「あはは、すみません、つい」
ジープは快調に走り、話題の尽きた二人は冷たいに風に髪を弄らせ、黙っている。やがて車は見晴らしのいい小高い丘にさしかかった。
「・・・・次の春が来たら」
言いさして、八戒は虚を衝かれたように口を噤んだ。三蔵は口をへの字に曲げ、丘の上を見やる。そこには桜の大木が枝を広げていた。咲けばきっと見事だろう。
「弁当はお前が作れ」
「え? ・・・あ、はい」
八戒は軽く息を吐いた後、お見通しですか、と独りごちるように呟いた。
「舐めんじゃねえよ」
「・・・・これは恐れ入りました」
おどけきれない口調に苦みが混ざる。消滅するはずの未来が忽然と現れたのだ、混乱も戸惑いもするだろう。だが、八戒は――悟能ではなく八戒は――それに慣れなければならない。生きるつもりであるならば。
「お弁当、何がいいですか?」
「任せる」
考えるのも面倒だ。それに、八戒の料理に外れがないのは知っている。
「じゃあ、まあ、お握りは基本として」
丘の周りをぐるりと廻り、三蔵と八戒を乗せたジープは一路、慶雲院へと引き返して行く。
「卵焼き、煮物、焼き魚に唐揚げ、あとお団子とかですかね」
「好きにしろ」
愛想絶無の物言いだが、八戒は臆することなく会話を続けようとする。三蔵に何か意味のあることを言わせようと粘っているようにも思えた。
「お握りの具は、おかか、梅干し、たらこあたりでしょうか」
「・・・ツナマヨ」
三蔵がぼそりと呟くと、八戒は嬉しそうに笑った。
「もちろん、ツナマヨも。あとは、そうですねえ、ツナ味噌と鮭マヨならどっちがいいですか?」
「・・・鮭、いや待てよ―――」
握り飯の具談義に思わず花を咲かすうちにジープは快調に走り、物足りなく思うほどあっという間に慶雲院に到着した。寺では、すでに目覚めていた悟空がむくれていたのは言うまでもない。
その晩、三蔵は夢を見た。翼の生えた八戒が空へ舞いあがり、どんどん遠ざかっていく。ただそれだけの夢だった。自由にどこへでも行け、思うままに生きろ、とその姿が見えなくなるまで見送り、そこで目が覚めたのだが、なぜか三蔵はきつく歯を食いしばっていた。
思えばジープは八戒に与えられた翼であるのかもしれない。あれを使えば八戒はすぐさま誰の手も届かないところへ行くことができる。誰の手も振り切って、遠くへ。
寝ぼけた頭でそんなことを考え、三蔵は眉間に皺を寄せた。八戒の好きにすればいいだけのことだ。ただそれだけのことだ。歯を食いしばったまま、三蔵は寝台から降りた。
白い翼は、その後もときおり三蔵の夢を訪れた。西への旅に出てからは幾分か頻度が増したような気もする。日常的にジープに乗り、乗らないときはその羽を常に視界に収めているせいかもしれない。
竜の飼い主は苦境を乗り越えるたびに死から遠ざかっていくようだ。羽を広げて先へと進んでいくなら門出を祝してやらねばならないだろう。
翼を翻し、空へと八戒は舞い上がっていく。今夜もまた、八戒の背中は遠ざかる一方だ。黙って見送る三蔵の方を振り返りもしない。いや、それでいい。
いいと言っているのに、今夜は夢の中に別の思考が割り込んでくる。
「僕はここにいてもいいんでしょうか」
愚問中の愚問だ、と、あのときは確かにそう思った。
「お前は俺を裏切らない」
頭に浮かんだ答えをそのまま口にしたはずだったが、口から飛び出た途端、その言葉は何かに別のものに変化しなかったか。竜が四輪駆動に姿を変えるように、飛ばない何かに。
「そうだな」
駄目を押した自分を悔いているわけではない。そんな暇はない。そもそも、たかが言葉だ、と三蔵は思い直す。その必要があれば、八戒はどんな行動でもとるだろう。裏切りだろうが何だろうがやればいい。
できなければ・・・、そうだな、と独りごち、三蔵は夢うつつで口の端を持ち上げた。そのときは、俺の首でも絞めながら舌を噛んで死ねばいい。悪くない末路だろう。奴にとっても、俺にとっても。
衣擦れの音に続いて羽を広げる音が微かに響く。飛び立つのか、長い指が首にかかるのか、いや、それとも。
それとも・・・・・・何だってんだ。
薄いカーテンを通して陽の光が差し込む。その光を浴びつつ八戒が身支度を整えていると、ジープが肩に飛び乗ってきた。何やら元気よく羽を動かすので、八戒は人差し指を唇に当てて目配せをした。すでに朝もそう早い時間ではないのだが、なにしろ皆まだ寝ているし、寝かせておいてあげたい。最も疲れているであろう人は特に起こしたくない。彼は何の夢を見ているのか、少し笑ったような顔で眠っている。
一週間以上も続いた野宿と敵襲の果てにようやくまともなベッドで眠れたのだから、今日一日は疲れを取ることに当てても罰は当たらないだろう。不足している物資を入手する必要もある。
とはいえ、物事は思ったようにはいかないもので、一番目覚めてほしくない人物が、先ほどまでの安らかな寝顔とはかけ離れた唸り声を上げながら身を起こした。しまったと思うが、もう遅い。
「すみません。起こしちゃいましたね」
「キュ」
詫びのつもりか朝の挨拶のつもりか、ジープが小首を傾げ鳴く。三蔵はかろうじて眉を持ちあげて応えた後、がっくりと項垂れるように頭を垂れた。まだ相当に眠いのだろう。
「寝てていいですよ」
声を掛けたところ寝ぼけたようなぼんやりした眼差しを向けられ、八戒は思わず微笑んだ。天下の三蔵法師様が台無しである。ジープも面白そうに羽をばたつかせている。
「・・・・」
三蔵は何か言いかけて面倒臭くなったようで、そのままベッドに倒れ込んだ。後に残るのは少し拗ねたような寝顔である。こうして見れば、割と普通の青年だ。いや、普通の青年は刺身にマヨネーズをつけて食べたりしないだろうが。
「ハ、三蔵サマも寝顔だけは可愛いじゃねえか」
欠伸しながら起きてきた悟浄は、そっちのサルといい勝負だな、と笑った。
「下僕の目に英雄なしって言うんじゃないですか、三蔵なら」
「なんだそりゃ」
八戒はジープを自分のベッドに置いて頭を撫でると、悟浄を促して廊下に出た。これでいましばらく三蔵と悟空を寝かせることができる。ジープにももう一眠りしてもらおう。もし眠くないのであれば、園児二人を見ていてくれるだろう。
「どんな英雄だって、日々お仕えしている下僕から見れば、手がかかって世話の焼ける人でしかないって意味ですよ」
悟浄はすでに煙草を銜え、軽く笑った。
「ハハッ、言えてる言えてる」
煙草吸いがてらちょっと散歩してくるという悟浄を送り出し、八戒は昨晩の約束通り、台所を借りに来た。栄養満点の朝食を作るつもりである。悟空など、明日の朝は八戒のメシなの?!とはしゃいでくれた。作り甲斐があるというものだ。
「おはようございます」
宿の主人に挨拶して、通常の朝食タイムが終わった台所を使わせてもらうことにする。料理は楽しい。確実に成果が出るのだから当然かもしれない。手を動かしながら、八戒は自嘲気味に微笑んだ。
下僕の目に英雄なしとは、昔の格言で、確かに八戒が悟浄に言った通りの意味である。距離が失われれば威厳も無くなると理解される場合が多く、悟浄もそう取ったようだ。しかし、別の解釈だってある。なんでも、昔の哲学者に言わせれば、下僕は下僕でしかなく、そのいじましい心根のせいで英雄を正当に評価することができないということらしい。
そうかもしれない、と八戒は独りごち、切れ味の良い包丁で肉を切る。
出会って間もない頃、三蔵は、荒っぽくはあれども、紛れもなく三蔵法師であった。百眼魔王の城跡で経を読む姿も、斜陽殿にて三仏神との謁見に臨む姿も、慶雲院で多くの僧侶にかしずかれる姿も、いずれも威厳を湛え、その職責にふさわしく見えた。
ところが、である。八戒の口からくすりと笑いが零れた。
ある程度近くで観察してみれば、彼の印象はがらりと変わる。口は悪い、目付きも悪い、銃やハリセンは振り回す、寺の都合は最小限にしか考えない、悟浄や八戒の都合はもっと考えない、悟空に手加減なしの拳骨を食らわす、すき焼きのときには小うるさい奉行と化す、散々飲んで酔っ払った挙句に一般人相手に魔戒天浄を発動させようとする、などなど、挙げればきりがない。人間味のある――ありすぎる――側面がさらけ出されている。
そういった部分を見て、三蔵を侮る連中もたくさんいる。少なくとも慶雲院の僧侶の一部にそういう輩がいるのは八戒も知っていた。あの態度こそ下僕根性のなせるわざであろう。彼らには三蔵の持つ硬いダイヤモンドのような輝きが見えない。
刻んだ野菜を肉と共に軽く炒めつつ、八戒の思考は続く。料理は考え事をするにはもってこいの作業だ。
三蔵を侮りはしないとはいえ、八戒にも似た気分がある。口の悪さ、目付きの悪さは受け流し、あるいは混ぜっ返し、大きな子ども扱いして日々世話に明け暮れている。荒々しさに紛れて見えにくい三蔵の心の温かさも柔らかさも知っているつもりだ。だから、旅の終わりを思うと少しさみしくなる程度には、この生活を楽しんでいる。
あるいは、愛おしんでいる。
八戒は動かしていた手をいったん止め、オーブンの準備具合を確認した。よし大丈夫、と呟いて、途中まで火を通していた料理を鍋ごと突っ込む。これでゆっくり火が入り、肉が軟らかく煮える。あとはサンドイッチと簡単なサラダでも作ればお終いだ。
作業に戻り、八戒はまた考えをめぐらせた。大事なのは適度な距離と性根である。親しき仲にも礼儀ありというではないか。近づきすぎても良くないし、世話焼きの程度を加減することも必要だ。それなしの生活でまた長く苦しむ羽目に陥るならば、学習能力がなさすぎる。腹の傷だけ徒に増やしても仕方がない。
サンドイッチの種とサラダを作り、調理器具をあらかた洗ってしまうとすることがなくなる。八戒はそこで初めて溜息を吐くことを自分に許した。
「ここにいてもいいんでしょうか・・・、か」
精神の危機に立たされていたとはいえ、馬鹿なことを聞いたものだ。いつまでも隣に在れるわけがない。なのに、三蔵は、八戒のための居場所を約束してくれた。信頼は揺るがないと肯ってくれた。とはいえ、それにいつまでも縋り付くのは驕りがすぎるのだろう。
何にせよ、旅はそのうち終わる。どんな形であれ、いつかは終わる。その後の人生があるとして、それは霞の向こうにあり、甚だ不透明だ。三蔵は何と言うだろう。決まっている。もちろん「好きにしろ」だ。さて、どうしたものか。
そこまで考えて、八戒はふと微笑んだ。旅の後の人生などというものを考えることが自然にできている。かつては死のことばかり考え、未来に狼狽えていたというのに。好きにしろ、と言われても、当惑しかできなかったあの頃はもう遠いということなのだろう。ただ、どうしていいのか分からないことに変わりはない。
「おー、いい匂いしてんな」
散歩を終えた悟浄が台所に入ってきた。
「ちょうど良かった。そろそろ三蔵たちを起こしてもらえますか」
「へーい」
殺戮と殺戮との間にぽっかり生じた穏やかな朝である。こんな日がいつかまた来ますように、と柄にもなく八戒は祈った。
オーブンでゆっくり煮たキャセロール、パリッとしたサラダ、山と積まれたサンドイッチ。今度はいつ作れるだろう。そうだ、次に春が来たらたくさん料理を作って皆で花見なんていいかもしれない。そういえば、初めて三蔵をジープに乗せたときに見た桜があった。なんだかんだと邪魔が入り、結局、花見はお預けになっている。
「八戒、起きてる? ってか、意識ある?」
的確なツッコミが後部座席から入る。旅の前と比べて、悟空は何と成長したことだろう。三蔵に置いて行かれて泣いていた子が、今や何があっても揺らぎそうにない。
「大丈夫ですよ」
概ね嘘は言っていない。ありったけの気を三蔵に注ぎ込み、かつ、烏哭の攻撃をまともに受け、身体はボロボロだ。しかし、生きているし、ハンドルも握れている。そもそも他に運転可能な者がいない。せっかく治療した三蔵は攻撃を食らってほとんど瀕死となり、傷を塞ぎなおさなくてはならなかった。悟浄だって限界に近く、出るのは空元気だけだろう。一番体力のある悟空には残念ながら運転技術がない。彼に運転させれば一行は確実にあの世行きだ。やっぱり今度、運転の仕方を教えてあげようかな、と八戒は微笑んだ。この先、何が起きるか分からないし。八戒は軋みを上げる肉体から注意を逸らすべく、とりとめのないことを考える。
「ああ、月が綺麗ですねえ」
「・・・・そうだな」
助手席から返事が返ってくることが単純に嬉しい。適度な距離を保つ、なんて出来もしないことをよくも考えていたものだ。自分を欺くのは土台無理だ。どうしても三蔵の傍に在りたい。どんな形だっていい。三蔵が勝手にしろと言うのなら、そうするまでだ。
「なーに呑気なこと言ってやがる」
「いーじゃん、確かにキレーだし、まんまるだし。・・・なあ明日の朝メシ、パンケーキにできっかな」
「ったく、この食い気ザルは・・・ッ」
笑いかけて傷に響いたのか、悟浄は言葉を継げずにイテテテテと呻いている。悟空もつられて笑いそうになり、やはり痛む腹を押さえている。
「いいですねえ、パンケーキ。甘くない味にして、スクランブルエッグとベーコンを添えて、野菜もたっぷりつけましょう。三蔵もそれにします?」
しばらく離れていたのが嘘のように四人と一匹がしっくり馴染んでいる。それが少しくすぐったい。かてて加えて、四人揃って血塗れなのがおかしくてたまらない。再会と大怪我のせいでテンションが変になっているのだろう。血や肉になるものを食べて、睡眠をとって十分回復しなければ。そう頭では分かっていても、ただひたすら心が躍る。三蔵がいる、一行が皆揃っているのだから。
「・・・・・悪くねえ・・・と言いてえところだが」
途中まで笑いを含んでいた三蔵の声が張りつめた。こんなときに敵襲だ。すぐさまジープを止め、竜の姿で隠れてもらう。ボロ雑巾と化した四人でどうにか戦わなくては。
「お尋ね者のさん・・・・フゴォッ」
三蔵の銃が火を噴いた。性懲りもなく名乗りを上げようとする癖はどうにかしたほうがいい。とはいえ、生きて帰れる者がいない以上、彼らが毎回同じ愚を犯すのは致し方ないのかもしれない。
「手間かけさせんじゃねーよッ!」
錫杖を振り回す悟浄はいつもと相変わらず力強いが、若干タイミングがずれている。
「とぉおりゃぁぁぁああああッ」
悟空も平気な顔をしているが、如意棒のキレがほんの少しだけ鈍っている。
「いつもながらにしつこいですね・・・ッ」
かく言う八戒自身も、普段より距離を詰めて気を放っていた。そうしないと威力が落ちると考えたからだ。常より前へと足を踏み出したことそれ自体は間違っていなかったのだが、おかげで援護すべき三蔵との距離が離れてしまった。それに気づいたときにはすでに遅かった。
「経文よこせーーーッ」
群れなす妖怪など、いつもの三蔵ならあっという間に片付けているだろう。しかし、今夜の三蔵はいつもの三蔵ではない。致命傷に限りなく近い重傷を負った状態だ。せっかく塞いだ傷口がすでに開いて流血しているのを目にし、八戒は総毛立った。
その後の記憶はやや曖昧である。三蔵が処理しきれていない妖怪たちに絞り込んだ気を打ち込み、駆け寄った後は当たるを幸い、敵の急所に蹴りを入れ、手刀を打ち込んだはずだ。あんなに無我夢中で殺したのは百眼魔王の城での殺戮以来だったろう。敵が八割がた片付いたとき、八戒の足はすでにふらつき気味になっていた。それでも危険を察知すると、覆い被さるように横から三蔵に抱きついた。その直後、背中に妖怪の投げた刀が刺さったが、もはや痛くもなんともなかった。急所を外せた安心感だけがあった。しかし、限界は近い。
「やめろ八戒! よせ!」
悲鳴のような叫び声を聞きながら、八戒は最後の力を振り絞った。三蔵の傷を可能な限り塞がなくては。あのときにはなかったこの力で、今度こそ死を遠ざけるのだ。それだけ果たせば、後の始末は安んじて皆に任せていいだろう。乾いた雑巾のような身を絞りきり、やがて八戒は意識を失った。
後で聞いたところによると、三蔵は八戒を横たえた後、完全にキレたらしい。いやキレたのは三蔵だけではない。悟浄も悟空も鬼気迫る顔をしていたに違いない。それが証拠に、ジープはしばらくその三人に必要以上に近寄ろうとしなかった。
哀れな残党どもを殲滅すべく、かつてない規模で魔戒天浄が炸裂する。強い風が起こり、大地が揺らいだ。倒れ伏す八戒の許へジープが降り立ち、飼い主を守るように羽を広げた。その白い二枚の翼は八戒の背中から生えているように見えた、と後に悟空は思い出すことになる。
翌日のことである。簡素ながらも清潔な病室で、三蔵は新聞に目を落としていた。身を入れて読んでいるわけではないが、他にすることがない。煙草を吸うわけにもいかず、火の点いていない煙草を銜えている。
あれから、横たわる八戒の傍から離れようとしなかったジープを叱り飛ばし、変化させて最寄りの村に急行した。辿り着いたときには夜も更けていた。出てきた村人たちは血塗れの四人を見て何事かと怯えたが、度胸も腕もいい医師が応対し、治療にあたることとなった。四人のうち三人の命に別状はない。意識もはっきりしているし、自分の足で歩くこともできる。問題は残る一人だ。
三蔵はベッドの上の八戒を見やった。すでに時刻は昼近くになったが、まだ八戒の意識は戻らない。こんなに消耗しきった患者は初めて見たと医師は言ったが当然だろう。八戒は自分の限界を無視したのだから。
いつ意識が戻ってもいいように、三人が交替でベッド脇に座り、八戒の様子を見ている。ジープは病室に入れないため、車体姿のまま路上で眠っているところだ。
微かなノックの後、ゆっくりと扉が開く。
「どーよ」
三蔵は扉の方に視線さえ向けず、首を横に振った。
「そっか。・・・・俺らとりあえずメシ食って来るわ。お前の分も適当に買ってくっから後で食え」
三蔵は無言でカードを投げ、扉は音もなく閉まった。部屋の中は静かだ。新聞の頁をめくる音しかしない。八戒は文字通り死んだように横たわっている。ゆるやかに、というよりも、じりじりと時は流れゆく。
そのうち新聞に飽き、いい加減に焦れてきた三蔵は、馬鹿めと独りごちた。翼を広げてどこなと行けと、八戒が思う道を進めばいいと考えてきたし、口に出して言ったこともあるが、死出の旅に出ていいとは言っていない。死に八戒を奪われるなど言語道断だ。そんなことになるくらいなら―――。
三蔵、あの場面でああするのはひとつの合理的な選択肢だったでしょう。三蔵一行として生き残るためには貴方が死んじゃ元も子もないですからね。ああ、もちろん僕だって死にたいわけじゃないですよ。だから、ほら、現にこうして生きてますし。
耳に勝手に八戒の反論が聞こえてくる。鬱陶しい奴だ。生きてるんならさっさと起きやがれ。だいたい、お前なしで三蔵一行とやらが成り立つと思うな。俺はあのガキどもの面倒を見る気なんざ微塵もねえんだ。
あはは、そりゃ貴方に保父業は無理でしょうねえ。慣れれば案外と楽しいもんではありますけどね。
「ならさっさと・・・」
思わず言葉に出てしまい、三蔵は唇を噛んだ。意識のない相手に届くはずもない戯けた真似だと分かっていても、堰を切ったものを元に戻すことはできなかった。ガキどもの面倒がどうとかいう問題ではおよそない。そんなことはとうに分かり切っている。三蔵は新聞を放り出し、煙草をきれいな灰皿の中に突っ込んだ。
「さっさと戻ってこい」
誇りを抱いて死ぬことは、一寸の虫けらにだってある五分の魂の本質ではない。それでは能無しの破れかぶれと区別がつかない。ちっぽけな虫が踏みつぶされようとするときに繰り出す必死の一撃は、確かに命を惜しんだものではなく、結果として死ぬこともあるだろう。しかし、端から死ぬつもりになるのは愚かなことだ。落命を前提とした行動に自ら出る奴はしばしばただ無謀なだけであり、そうした行為を命ずる奴はどうあっても無能の誹りを免れまい。俺はそんな無能じゃねえ、と三蔵は歯を食いしばった。死ねと命じた覚えはない。
「好き勝手やってんじゃねえぞ」
八戒の瞼がぴくりと動き、震えたかと思うと、緑の瞳が姿を現した。八戒は二、三度瞬きした後、その瞳で三蔵を捉えた。
「・・・何だか今、すごく珍しいことを言われた気がするんですが」
起きて早々、八戒は人を食った笑みを浮かべる。
「えっと・・・・・普段は、好きにしろとか言ってませんでした?」
弱々しい声ながら、言葉の運びはいつもの八戒そのものだ。
「文句があるなら聞いてやる」
八戒は目を瞬かせた。
「いえ、文句なんか・・・」
くすりと笑い、むしろ貴方の方が僕に文句がありそうですね、と言って、八戒は軽く息を吐いた。
「だって貴方を死なせるわけにはいかないでしょう。何と言っても『三蔵』一行なんですし」
それ見ろ、思った通りのことを言いやがる、と三蔵は目を眇めた。
「流石に今さら好きこのんで死んだりしませんよ。・・・でもね」
そら来やがった。何が、でも、だ。でももヘチマもあるか。
「恐れていたら身体が動きませんから。もちろん、ただの無謀な自己犠牲がいいとは僕だって思いませんよ。それでも、身を投げ打って思わず他人を助けてしまうのは、人も妖怪もそう出来ているから、あるいはそう創られているからだ、という側面があるでしょう。まして・・・」
「生物学か宗教学か知らんが、講義なら大学院でやれ」
無愛想に三蔵が遮ると、八戒は柔らかく笑った。
「貴方だってひとのことは言えないはずですよ」
当たり前だ。目の前に危機の迫った者がいれば、咄嗟に庇ってしまうことは容易に想像できる。それが自分の親しい者、何が何でも失いたくない相手ならなおさらだ。そんなことは分かっている。だからこそ、この怒りにやり場がないことも。
言葉はなくとも、八戒は即座に理解したようだった。いや、端から分かっているはずだ。
「・・・・・・・すみません。言わずもがなのことばかり」
分かればいい、と三蔵は眉を上げ、立ちあがった。
「まあ、その、そう簡単に死んだりしませんから」
三蔵は吸い飲みに白湯を入れてベッド脇に戻り、八戒に水分を補給させた。八戒は思ったよりたくさん飲み、深々と息を吐いた。
「・・・はぁ、ありがとうございます。何だか老後の介護を受けてる気分ですね」
身も蓋もないことを言って八戒は笑い、三蔵は顔を顰めた。
「何でお前の介護をしなきゃならねえんだ」
「おや、なら僕が三蔵の介護をしましょうか」
三蔵、ご飯はさっき食べたでしょ、とかやるんですよ、と面白そうにからかう八戒の声には先ほどよりもよほど張りがある。もう元気になり始めたようだ。回復の速さにはいつも舌を巻く。気を揉んだだけ損をした気さえしてくるほどだ。
「フン、そこまで言うんなら、やってもらおうじゃねえか」
売り言葉に買い言葉だ。来るか来ないかも分からない未来のことなど考えるだけ無駄である。しかし、老後の趣味と言えば盆栽で、などと勝手に喋る八戒を制止する気分にもならない。
「引退した三蔵法師専用の老人ホームとかあるんですか?」
「あるわけねえだろ」
三蔵は呆れ顔になった。
「じゃあ、老後は慶雲院ですかねえ」
「辛気くせえ寺なんざまっぴらだ」
八戒は瞬きをひとつした。
「それなら・・・・家に来ます? もれなく悟浄がついてきますけど」
「河童は追い出せ」
「そんな可哀想な」
あははと楽しげに八戒は笑う。
「悟空だって一緒に来たがるんじゃないですか」
三蔵は鼻で笑った。
「あのサルが年を食ったからって落ち着いていられると思うか」
八戒は微笑んだ。少しばかり困ったような顔で。
「えっと、そうすると僕ら二人きりになっちゃいますけど」
もちろんジープと僕はセットですが、と付け加え、八戒は口を噤み、三蔵をじっと見つめた。その視線の意味するところは前から知っていたような気がする。
「それがどうした。まさか今さら尻込みしてんじゃねえだろうな」
わざとらしく口をへの字に結ぶと、八戒の瞳が微かに揺れた。
「そんな・・・尻込みなんて、するわけないでしょう」
八戒が自ら翼を折りたたむのなら、それを拒否する理由はない。いや、そうではなくて。
「なら問題ねえな。・・・任せたぞ」
八戒の頬が薄く色づく。
「・・・・ええ、はい」
これで老後の予定は決まりである。そんなものがあればの話ではあれ、遠い道の先にぽつんと小さな明かりが灯った。
「そうそう、老後云々の前にお願いがあるんですけど」
なんだ、と促すと、八戒は微笑んで、旅が終わって長安に戻れたら、と言いだした。
「あの丘の上の桜、覚えてます? あそこへ花見に行きませんか。前に行こうって言って結局行けませんでしたからね」
初めてジープの助手席に乗ったときに見た桜の大木が驚くほど鮮やかによみがえる。春が来たら、と未来を思う言葉が口を衝いて出たことに八戒が狼狽した、あの桜のことだ。
三蔵が、ああ、と頷いたとき、何かが勢いよく扉にぶつかる音がした。
「八戒の声がする!」
「おいおい、蹴破んなよ」
見れば、馬鹿コンビが扉を開けて雪崩れ込んでくるところであった。
「八戒! 意識が戻ったんだ! よかったぁぁああ」
「おー、死にぞこなったじゃんよ」
嬉しげにぴょんぴょん跳ねる悟空と、ニヤリと笑う悟浄は、八戒の顔を覗き込み、その無事を喜んだ。それはいいのだが、なにしろやかましい。彼ら二人は、堪忍袋の緒の極めて切れやすい三蔵にそろってハリセンを食らい、あえなく退場となった。
その後、三蔵と八戒は、悟浄と悟空がたっぷり持ち帰った折詰を分けて食べ、茶を飲んだ。食後、三蔵に寝ろと言われた八戒は素直に横になったが、その後の台詞はあまり素直ではなかった。
「かなり回復した感じですね。明日か、遅くても明後日には出発できると思いますよ」
「・・・・・おい」
八戒は三蔵の懸念を笑い飛ばす。
「大丈夫ですよ。それに・・・」
言いかけたとき、壁の向こうから、うぉおああッという声とドスンという大きな物音が聞こえてきた。八戒はくすくす笑う。
「ほら、悟浄も悟空も力があり余っちゃって、じきに病院を壊しかねませんって」
三蔵は渋面を作り、ハリセンを握って腰を上げた。ともあれ、八戒が無事なのであれば、勝手にさせればいい。指図の必要はない。
「まあいい、好きにしろ」
そう言って三蔵は部屋から出ていく。ほどなくして怒鳴り声とスパーンという景気のいい音が壁越しに聞こえ、隣はしんと静かになった。
「好きにしろ、ですか」
八戒の呟きが室内に落ちると同時に、三蔵が戻ってきた。
「何か言ったか」
「ええ、まあ。・・・好きにしろとか、勝手にしろとか、貴方に言われるのも悪くないなあと思って」
どういう意味だ、と目で問うた三蔵に、八戒は悪戯っぽい笑みを見せた。
「しぶとい雑巾で良かったな、と」
「何だそれは」
「そのまんまの意味ですよ」
八戒は目を半ば閉じ、ふふふ、と笑った。どうやら腹がくちくなったおかげで急速に眠気が襲ってきたようだ。
「釈迦に説法でしょうけど・・・・貴方も、休むなり何なり・・・好きにしてくださ・・・」
言い終えることなく、八戒は眠りに落ちていく。三蔵は僅かに口の端を吊り上げ、言われるまでもねえよ、と寝顔に小声で返事をすると、煙草を銜えて火を付け、再び新聞を広げた。
|
―了―
|
「竹箆」様宅の開設10周年(!)記念企画に乗っかり戴いたリクエスト作品♪
リク内容は『長い両片想いの後結ばれる38、眠っている相手に気持ちを吐露する(原作準拠)』。両片想いって単語イイですよね。過程萌えにとって、その期間が長い程美味しいです(笑)。
背景写真探しで大変苦労致しましたが、最終的には青空と大きく翼を広げる鳥の2つの写真素材を同一サイト様からお借りし、コラージュしました(規約範囲内)。
ジープ君大活躍で、一粒で二度美味しい御作品、anpavc様本当に有り難うございました! |

「常連です!」という方も「自分行動範囲狭いモンで;」という方も、読んだらぽちっと↑
同志の輪を広げましょう♪ |