『チョコレートは昔、媚薬として用いられた』――そんな言葉がありますね。
如何にも眉唾物と言うべき内容ですが、驚くことなかれ、それは当たらずとも遠からずなんですよ。
チョコレートの原料であるカカオ豆には、カフェイン――コーヒーに含まれるあれと同じもの――やテオブロミン――これはカカオ特有の成分ですね――が含まれていて、心悸亢進、つまり脈拍を上げる作用や、発汗を促す作用を有します。それは即ち、恋をしている時の身体の反応と同じ状態で、いわば疑似恋愛状態を作り出すわけですね。
更には、アステカ由来のスパイシーな飲み物――当時はカカオ豆の油分をコントロールする術がなかったため、チョコレートは飲み物という分類だったんですよ――だったチョコレートがヨーロッパ全土に広まった17世紀当初、カカオ豆本来の苦みを打ち消すために、磨り潰した物に砂糖やバニラを加えた結果、上流階級のサロンで饗される贅沢な飲み物へと変貌したのですが、サロンとは貴族や知識階級が情報交換を行う場であり、その情報には当然恋愛談義も含まれるわけです。
前者の化学的な要素と後者の心理学的な要素から、男女の間で飲み交わされるチョコレートが媚薬とみなされたのは、自然な成り行きと言えるでしょう。
実際、若い女性の間では、想う相手に淹れるチョコレートに自分の血液をひと垂らし混ぜて飲ませるというおまじないが流行ったそうですよ。
「おまじない云々は結構ですから、あの花喃の要望に応える方法を考えて下さいよ、天蓬」
【まあまあ、イベントと歴史と食べ物は切っても切れない関係ですからね、どんなものでもまずはその背景や歴史を知ることからですよ。
それにしても、『友チョコ30人分』とは、貴方と違って交友範囲の広いあの子らしいですね】
「学校で昼休みにバレンタインパーティーを開くそうで、そのデザートに、ということらしいです」
【それはそれは、美しき哉青春。むしろ貴方がこのまま枯れてしまわないか心配ですよ】
「人の事は放っておいて下さい」
そのバレンタインデーについてですが、これは紀元3世紀、ローマの司教バレンタインが、当時結婚を禁じられていたローマ兵――妻恋しさに戦意が落ちるのを防ぐためだそうです――の婚儀を秘密裡に執り行っていた事を罪に問われ、処刑されたのが2/14であり、海外では男女問わず恋人にプレゼントを贈るイベントになっているわけですが、日本ではちょっと意味合いが変わりまして、女性が男性に想いを伝える為チョコレートを渡すイベントになっているようですね。
これは起源がある程度明らかでして、1950年代終わり頃、某チョコレートメーカーが打ち出した宣伝攻略なんです。当時は女性が告白するという事が国民性とそぐわない点からあまり広まらなかったんですが、70年代になると一気に認知されるようになりました。まあ現在は『義理チョコ』や『友チョコ』、『自分チョコ』等、チョコに持たせる意味合いも様々なようですが。
ともあれ、この試みは大当たりしたわけで、国内のチョコレートの流通量は2月が断トツになる程ですし、乳製品や調理器具など、製菓関連用品の売り上げも釣られて伸びるしで、今や周辺業界も無視出来ない一大イベントとして確立したわけです。
「まあ、この家では調理器具を扱うのは花喃ではなく僕ですけどね」
【そこは向き不向きと言いますか・・・お湯と混ぜるだけのゼリーの素で失敗している時点で、厨房に立たせてはいけない人種だと判断しましたので】
「その点は否定しませんね。だからこそ、食事やデザートの要望を黒板に書いてもらって、僕がそれに応える習慣が定着したのですから。
で、今回の花喃の要望はどうしましょう?」
【そうですね・・・じゃあ、手っ取り早く数を稼げる生チョコがいいでしょう。
チョコを刻む、生クリームを沸かしてチョコに注ぎ込む、チョコが溶けて均一かつ滑らかになるまで混ぜる、型に流し込んで冷やし固める、固まったら適当な大きさに切り分けて、まんべんなくココアパウダーを振り掛けたら、はい出来上がり♪】
「・・・簡潔な手順説明有り難うございます」
ちなみにココアパウダーでお馴染みのヴァン=ホーテン、これは実は、チョコレートの歴史に革命を起こした人物コンラッド・ヨハネス・ヴァン・ホーテンのことで、カカオ種子から油脂分であるココアバターと固形成分であるココアパウダーを分離することに成功した人なんですよ。
彼がいなければ、チョコレートは今も飲み物でしかなかったのかも知れません。そう考えると、彼の業績が如何に偉大だったかが自ずと知れましょう。
【それにしても、友チョコは兎も角、誰かにチョコをあげるということはしないんですかね、貴方達は?】
「花喃は女子校ですからね、そういう出逢いはないみたいですし、むしろ後輩から貰う側みたいですよ。
僕は・・・あまり人付き合いが得意な方ではないですからね、恋愛なんてハードルが高過ぎて・・・」
【僕も人付き合いは苦手でしたけど、ちゃあんと恋人はいましたよ。
大丈夫。貴方が人付き合いが苦手だろうと性格に難ありだろうとシスコンだろうと、そのままの貴方を受け止めてくれる人が現れますって】
「・・・社会人になって貯金が出来たら、真っ先にこのキッチンをリフォームしましょうか」
【酷いですねー、慰めてるのに】
人付き合いの苦手な彼に金髪紫眼の恋人が出来、かまどに居座っていた薀蓄精霊が解き放たれるまで、あと5年――
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