カタ
書類の最後の文章を書き終えたところで一旦筆を置く。
署名・捺印の前にもう一度目を通す必要があるからだ。
そしてそこで筆の代わりに煙草を取り、火を点けた。
「フゥ・・・」
自分に廻ってくる書類の殆どは、その内容を確認した上で署名なり捺印なりすれば決済に廻すことが出来るが、今手元にあるような一から自分で起稿しなければならない書類の作成は、やはりそれ相応の緊張感を伴う。
だからだろうか、そのような場合、最後の署名・捺印の前に一服するのが、いつの間にか習慣になっていた。
「・・・・・・」
いつもであれば身体がニコチンを吸収する充足感をしばし堪能し、その後再び書面に向き合うのだが、今日は違う。
充足感とは程遠いささくれた感覚が胸に巣食っていて、それはニコチンを摂取しても消えることはなかった。
この不快な心の棘を感じ始めたのは、昨日今日の事ではない。
そしてその原因も、はっきりとではないが、自分は気付いている――
そこまで考えると、舌打ち一つして立ち上がる。
仕上げの済んでいない書類を机の上に置いたまま、執務室を後にした――
執務室のある棟を出て、渡り廊下を通って別棟へ入る。
向かうのは、幾つもある扉の中で唯一灯りの洩れる扉。
コンコン
ガチャ
「入るぞ」
「・・・今日は、いつもより早いんですね・・・」
最低限の家具しかない簡素な部屋で俺を迎えたのは、俺と左程変わらない年恰好の男。
半月程前、百眼魔王とその配下の妖怪千余人及び自分の村の人間数十人を殺戮した罪で捕らえられ、勾留されている。
猪悟能という名の碧の瞳をしたそいつは理知的で整った風貌をしており、大量虐殺という罪状とはおよそかけ離れた印象を与える。
だが、その外見とは裏腹に全てを熔かす程の激情を抱いている事に俺が気付くのに、そう時間は掛からなかった。
拘束の直前、己の手で己の眼球を抉り取る姿。
捕らえられた後、自傷を繰り返す姿。
想う者を奪った者達と、取り戻せなかった己自身双方への憎しみに慟哭する姿も、またこいつの本性なのだと――
「傷の調子はどうだ」
それまで読書のために腰掛けていた椅子を俺に勧め、ベッドに腰を下ろした悟能に、これまで幾度となく尋ねた質問を投げ掛ける。
聞きながら、煙草を取り出し火を点け、机の上の灰皿を手繰り寄せた。
悟能は煙草を吸わない。この灰皿は、俺が持ち込んだものだ。
「・・・こちらの質問には答えず、ご自分の聞きたいことだけ聞くんですね」
「聞いても仕方のない質問に答える時間を割く程、俺は暇ではないんでな。それよりこっちの質問に答えろ」
そう言い放つと、穏やかな湖面を思わせる碧の眼が、僅かに細められた。
が、それは一瞬のことで、すぐに元の顔つき――自虐的な笑みを浮かべた表情――に戻る。
「・・・そうですね、殆どの傷は、痕も残さず治ってしまいました。妖怪の自然治癒力って大したものですね」
「テメェが無駄なことを繰り返してなけりゃ、こっちの段取りはもっと早くに進んだんだがな」
「・・・段取り?」
訝しげに見上げる悟能にその内容は告げず、必要な事のみ伝える。
「明日、斜陽殿にて裁きが言い渡される」
それを聞いた悟能が、ハッと瞠目した。
「・・・・・・そう、ですか・・・」
呟くように言いながら、その視線をこちらから外す。
この生ぬるい責め苦から解放されるという安堵にも似た感情が、言葉の端に表れていた。
「――何か、言いたい事はあるか?」
「・・・今更、申し開きをするつもりはありませんよ。死刑だろうと労役だろうと、受け入れる覚悟は出来ています」
悟りきった表情で返される答えに対して言葉を返すでもなくフンと鼻を鳴らし、
「明日、10時頃に此処を発つ。それまでに食事と身支度を済ませておけ」
殊更事務的に告げると、独房を後にした。
執務室に戻ると、先程署名の前に筆を置いた書類を手に取る。
改めて全体に眼を通すと、今度こそ署名・捺印をして仕上げ、決済に出すべく社務所へと届けさせた――
斜陽殿から慶雲院へと戻ってきた僕を迎えたのは、それまで居た独房ではなく小さいながらも幾つかの調度品が備えられた宿坊だった。
「お前を市井に出すためにはまだ幾つかの手続きが要る。それまではこの部屋を使え」
「・・・こんな立派な部屋・・・これまでと同じ部屋で良かったんですが・・・」
「阿呆、罪人でもない人間を監房に入れたら、こっちが訴えられるだろうが」
「はあ・・・」
「手続きはなるべく早く進めさせるが、それでも半月程掛かるだろう。その間を利用して、お前には義眼の手術を受けてもらう」
「そんな・・・!命があるだけでも充分なのに、そこまでしてもらう必要は・・・!」
「馬鹿かお前、そんな状態で世間へ出て、堅気として扱われるわけねぇだろうが」
「それは・・・ですが・・・」
「それとも――まだ、何も見ないでいるのか」
「・・・・・・それは・・・・・・」
「ざけんな、そんな事でお前に課せられた『生』が全う出来ると思ってんのか。
『生きる』と決めたのなら、何があっても目を逸らすんじゃねぇ、その眼で、ちゃんと前を見ろ」
射殺さんばかりに鋭く投げ掛けられる眼光が、僕の心に突き刺さる。
浴びせられる言葉は容赦がなく、僕の逃げ道を断ってしまう。
「・・・・・・・・・はい・・・」
「解ったらとっとと休め。明日の午後には眼科医と義眼技師が来るからな」
必要事項のみ伝えて、三蔵さん――最初、『三蔵様』と呼んだら『坊主共と同じ呼び方をするんじゃねぇ、ウゼェ』と物凄く睨まれた――は出て行った。
足音が遠ざかると、取り敢えず傍のベッドに座り込み、ほう、と息をついた。
自分でも気付かないうちに、神経を張り詰めさせていたようだ。
正直、生きて此処へ戻ってくるとも思っていなかったので、今日一日の出来事には戸惑うばかりだった。
斜陽殿での裁決は、『「猪悟能」の死を以て、新たなる人生を生きよ』というものだった。
そして、『猪八戒』という新しい名と戸籍をもらった。
そこまで回想したところで、チリ、と刺すような不快感がうなじを走った。
原因は――あの人だ。
玄奘三蔵法師。
あの人が傍にいると、姿を見ると、声を聞くと、無性に苛々する。
恩を感じていないわけではない。
自棄になっていた自分を制し、花喃の死に場所で僕の為に読経してくれた。
即刻死刑になっても不思議はなかった僕の処分について、三仏神に取り成してくれた。
そして今後についても、彼が監督する事を条件に、自由の身となる事が決まっている(世界広しと言えど、三蔵法師が後見人に立つ人間ってそういないと思う――あ、妖怪か)。
僕が、あの人に対して負の感情を抱く理由は何一つ無い。
それなのに、あの人の事を考えただけでも湧き上がる、この嫌悪感にも似た感覚。
一体、何なんだろう?
自分の感情なのに、自分で理解出来ないもどかしさに、無意識にシャツの胸元を掻き毟るように鷲掴んだ――
――そして10日後――
コンコン
「・・・どうぞ」
ガチャ
「入るぞ」
「何か、御用ですか?」
「包帯が取れたそうだな」
「わざわざ見にいらっしゃったんですか?」
「医者も技師も義眼の材料も、全て俺が手配したんだ、完成品を見るのは当然だろうが」
「・・・はぁ・・・」
正論なのか曲論なのか、判断を付けかねる八戒の右目を、三蔵が覗き込む。
「・・・っ!」
僅かに息を呑み、目を見張ったり瞬きしたりする八戒(の、右目)を矯めつ眇めつすると、一瞬、三蔵の口角が上がった。
「・・・?」
それを見た八戒の琴線に何かが触れるが、その正体に気付く前に三蔵の顔と手が離れる。
「多少は見える特殊な義眼と聞いているが、どうなんだ?」
「視神経を補う細い線が付いているんだそうです。でも正直言うと明暗や大雑把な色の区別が判る程度で、物の形や僅かな色の違いまでは・・・」
そう苦笑する八戒の目の前に、小箱が突き出された。
「?」
「義眼ってのは、ちょっとした風や光でもダメージの原因になるそうだ。着けておいた方が、多少の保護にはなるだろう」
箱を開けると、銀のフレームに縁取られた片眼鏡。
「あ・・・有り難うございます・・・」
素直に礼を言い、それを早速掛けてみた。
鏡は洗面所にしかないので、窓ガラスに映る自分の顔を見て片眼鏡の位置を整える。
そんな八戒の様子を見ながら、三蔵が口を開いた。
「――3日後・・・」
「え?」
「全ての手続きが、明後日で終了する。3日後、お前は此処から出ることが出来る」
「・・・・・・」
此処を出る。
斜陽伝での裁決が下された後も全く実感の無かったその言葉が、急に現実味を帯びてきた。
と同時に、これまでにも幾度となく感じていたチリチリとした不快感が、今になって再び押し寄せてきたのだ。
――あぁ、まただ。
僅かに眉根を寄せる八戒の様子を知ってか知らずか、三蔵が言葉を重ねる。
「以前にも言ったが、今後俺がお前の後見人兼監督責任者となる。定期的にお前から近況を聞き取り、それを上に報告せにゃならんから、予定の変更があればすぐに俺に知らせろ。
あと、お前には悟空の家庭教師を頼みたい」
「・・・え?」
「仕事の片手間に最低限の読み書きを教えはしたが、やはり限界がある。それにお前、塾講師をしてたんだろう?適任じゃねぇか」
「・・・はぁ・・・」
「取り敢えず、現時点で決まっているのはこんなところだが――」
それまで殆ど一方的に、淡々と喋っていた三蔵は、そこで一旦言葉を切ると、八戒の顔を真っ直ぐ見ながら言った。
「何か、言う事はないか」
「え?えっと、今までお世話に――」
「そんな事を聞きたいんじゃねぇ」
八戒の言葉を遮る三蔵の瞳に、剣呑な光が灯る。
自分は何か怒らせるような事をしただろうか、内心首を傾げる八戒に、三蔵は舌打ちして言った。
「俺に対して、何か、言う事はないかと聞いている」
「―――っ」
一句一句区切られて言われた内容に、八戒は息を呑んだ。
「俺が気付いていないとでも思ってやがったのか」
――そう、ずっと前から気付いてた。
穏やかな笑みを形作った仮面の下で、自分への嫌悪感を澱ませていた事を。
他人からどう思われようが頓着しない性分から、只黙って看過していたが。
日増しに募る不穏な空気は、自身の神経にも障り始め、
無性に苛立つ日々を送る中、この機会を窺っていた。
「・・・・・・・・・」
己の甘さを痛感させられ、ぐうの音も出ない。
唇を噛み俯く八戒に、容赦ない追い討ちを掛ける三蔵。
「貴様が俺をどう思おうと知ったことじゃねぇがな、いつもいつも俺の顔見る度にピリピリされちゃ迷惑なんだよ」
どう思おうと知ったことじゃない。
それを聞いた瞬間、八戒の中で何かが弾けた。
「・・・よくそんな事が言えますね、こちらの気持ちも知らないで。
初めて此処に来た時からずっと、訳の解らない感覚に襲われるんです、貴方が傍にいる時は必ずといっていい程。
最近では、傍にいなくても貴方の事や貴方との会話を思い出しただけで、首の後ろがチリチリとして、訳もなく胸の辺りがザワザワする。
それが何なのか自分でも判らないから、貴方を見る度苛々するんですよ。
沙門の頂点に立つ貴方には、こんな妖怪崩れの悩みなんて理解出来ないでしょうね!」
「馬鹿かお前、今まで何も言わなかった癖に、理解出来ないもクソもあるか。
それを言うなら、そうやって苛々した気配を放っている手前を見る度胸糞悪くなる俺の気持ちは解るか?
手前が何度も自傷を繰り返したり、雨音で意識ブッ飛ばしてるのを見る度にけたくそ悪ぃと思っている事や、死ぬ事しか考えねぇ手前の為に嘆願書を書いたり義眼の手配をしたりしていた事も、手前は知らねぇだろうが!」
「そんなの知る訳ないでしょう、それこそ言わなきゃ判りませんよ!」
「ほら見ろ、お互い様じゃねぇか!」
それまで必要最低限の会話しかなかった2人が感情も露に言い争うというのは、初めての事だった。
互いが今までの鬱積を晴らすように捲くし立てると、そこで一旦口を閉ざした。
ハァ、ハァ、と慣れない、というより初めての口喧嘩で上がってしまった息を整えると、相手をじっと睨みつけ――
「要するに、僕等似過ぎてるんですよ。地位とか姿形ではなくて、物の考え方や周囲と交わるのを嫌うところ、妙なところで凝り性なところとか」
「確かにな。雨がトラウマの引き金になってるところまで似る辺り、笑っちまうぜ」
「あ、やっぱりそうなんですか。どうも雨の日の貴方ってピリピリしてるなと思ってたんですよ」
「煩ぇ、窓ガラスを素手で叩き割った挙句全身ずぶ濡れになってた貴様よりは何倍もマシだろうが」
「あぁ、そういえばそんな事もありましたねぇ」
「・・・イイ性格してんな、貴様」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・あ、れ?」
何だか、さっきと打って変わって凄く場の空気が和やかなんですけど。
って言うか、えっと、あれ?
「あ゛?」
「あの、ええと、ちょっと待って下さい、今何か、大事な事を思い出しかけ――」
『苛々した気配を放っている手前を見る度胸糞悪くなる』
『自傷を繰り返したり、雨音で意識ブッ飛ばしてるのを見る度にけたくそ悪ぃと思っている』
『手前の為に嘆願書を書いたり義眼の手配をしたりしていた』
雨音に狂わされて無我夢中で窓ガラスを叩き割った上、そのまま窓から降り込む雨でずぶ濡れになった自分を見つけ、窓から引き剥がして湯を沸かして手の傷の手当をしてくれたり、
早く死なねばと自傷する度に、裁決の日程を繰り下げる手続きをしたり、
新しい生を生きる事が決まった翌日に診察が受けられるくらい、早期に義眼手術の手配を始めていたり、
『医者も技師も義眼の材料も、全て俺が手配したんだ』
完成品を見る特権を振りかざし、この目を覗き込んで、そして――
「―――っっ!!!」
ボッ、と音を立てんばかりに、八戒の顔が真っ赤に染まる。
「おい、どうした!?」
流石の三蔵も、八戒の変化が解らず、慌てたように八戒の肩を掴むと、ビクッと大袈裟なまでにその身体が震えた。
――あぁ、そうか。
僕は、この人の事が――
「――好きです」
ずっと感じていた同属嫌悪は、裏を返せば比翼連理。
何かが欠落している者同士、2人で一体となる存在。
「貴方の事が、好きです」
言いながら、八戒は自分の肩を掴んでいた三蔵の手を取り、その指にそっと口付けた。
「・・・、・・・、・・・・・・ッ!」
目を白黒させ、声にならない声を上げる三蔵に、八戒は拗ねたように言う。
「酷いですねぇ、人が一世一代の大告白をしてるんですから、返事ぐらい下さいよ」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
先程まで茹でダコのようだった八戒が喰えない顔になっているのに対し、今度は三蔵が顔を紅潮させる番だった。
どうやら、遅ればせながらも自分の気持ちに気付いたらしい。
「言葉が無理なら・・・これで、下さい・・・」
そう言って、男にしては厚めの下唇に、指を這わせる。
瞬間、ピク、と震える身体に、しかし逃げる意思は窺えない。
それどころか迎えるように唇を薄く開く様は、誘っているような錯覚さえ起こさせる。
もちろん口に出せば烈火の如く怒り出すのは目に見えているから、苦笑一つ洩らしてそれを己の唇で塞いだ――
酷く似通う所に、嫌悪した。
自身を見ているようで、癇に障った。
そんな苛立ちは、過去の事。
永遠に2人で1つなのだから――
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