運の向き加減がイマイチ微妙だったので、賭けポーカーを切り上げて家路に着いたのは、深夜というにはまだ早い時間帯。
つい先日新しくしたばかりのドアの鍵を開ければ、
「あれ、早かったですね?」
既に風呂を済ませて、就寝前の時間を過ごしていたらしい同居人が、意外ですね、という台詞を視線に乗せてこちらを振り向いた。
「んー、何となくノんなくってさ」
そう言いながら、摘まめるものでもないかと尋ねようと同居人――八戒の方を向いた俺は、はて、と違和感に首を傾げた。
元々上っ面でしか他人と目線を合わせたことのない俺が、奴さんとまともに向き合うようになったのは、極々最近の事だ。
だからこそというべきか、俺の左程容量の大きくはない脳内メモリーにインプットされている奴さんの姿――もっと限定すれば、その顔――と、今のそれとにズレがあるように感じたのだ。
「どうかしましたか?」
「や、何つーか・・・お前さん、いつもと違うくね?」
俺の言葉に、初めは頭上に疑問符を浮かべながら小首を傾げていた奴さんは、あぁ、と思い至った様子でポンと手を合わせた。
「それって、これの事じゃないですか?」
そう言いながら、人差し指で指し示したのは、
「・・・片眼鏡?」
「家事や長時間の読書をする時は普通の眼鏡を掛けるんですが、寝る前にほんの2時間程軽い読み物を読む程度なら、こっちを掛けるようにしてるんです」
そう言って、手にしていた文庫本を顔の高さに持ち上げて見せた。
2時間の読書が軽いとは、俺には到底思えなかったが、それはさておき。
慶雲院に連行され、『猪八戒』となって釈放された奴さんと再会した時、そういえば奴さんは確かに片眼鏡を着けていたが、同居を始めてからはずっと普通の眼鏡でいたせいで、そんな事もすっかり頭から抜けていた。
だが、そこでふと疑問が湧く。
「それ掛けて、見えるの?」
八戒の本来の右目がどうなったのかは、聞くつもりもないし、その必要もない。
ほんの数ヶ月前、この虫も殺せないような相貌の男が、自分の手で抉り取ってしまったのを、良く知っているからだ。
その後、義眼を嵌めた事は、奴さんから聞いているが。
眼鏡というからには当然視力を補う物だと思うのだが、作り物の目にそんなものがあるのかというと、ちょっと想像し辛い。
そう考え、何の気なしに投げ掛けた質問だが、奴さんはそれには答えず、やおら立ち上がると、
「取り敢えず、何か食べます?」
言われた途端、腹の虫が小さく鳴いた。
賭場で色々口には入れていたが、街から歩いてきたせいか、思ったより腹が減っていたようだ。
あっという間に夕飯の残りらしき物と幾つかの肴と焼酎の七三割りが食卓に供され、箸を取ろうとすると、向かいの席に八戒が座った。
手には空のグラス。
「僕もお相伴に預かろうかな」
おショウバンなんて単語、俺の人生で聞いたことなど殆どないから、一瞬反応が遅れた。
「あ・・・飲む?」
「ええ」
差し出されたグラスに焼酎を注いでやる。
こいつとサシで飲むのは、初めてかも知んねぇ。
最初に拾った時は、当然酒など飲める状態ではなかったし、再開してからは生活スタイルや考え方の違いから、互いの立ち位置が掴めないでいた。
いつぞやにクソ坊主と猿と4人で食事に行った際に、ある程度イケるクチなのは聞いていたが。
何となくそんな事を思い出しながら食事と酒を交互に口に入れていると、
「で、ですね、さっきの話ですが」
「へ?――あぁ、片眼鏡の」
モグモグ、ゴクゴク。
肴の皿と焼酎の瓶は、テーブルの真ん中辺りに置いているので、どちらともなく少しずつ手を付けていく。
「まぁ、結論から言えば、殆ど見えてはいないんですよ」
「へぇ」
そりゃあ、義眼だもんな。やっぱり。
八戒は空になったグラスに自分で焼酎を注ぎ、ついでとばかりに俺のグラスも満たす。
「サンキュ。――でも、全く見えないワケじゃないんだ?」
「そうなんですよ。何でも、最新技術で創られた義眼だそうで、細い線を視神経に繋ぎ合わせることで、義眼が見た物を電気信号に変換して、脳に送る――そうして脳は、視覚情報を得る事が出来るんです。
と言っても、物の輪郭まで捉えるのは、今の技術では無理だそうで、ぼんやりと色の違いが見える程度なんですがね」
「へえぇ。じゃあ片眼鏡でそれをカバーするとか?」
「・・・確かに、若干コントラストを強調するようには出来ていますが、それでも普通の人が眼鏡を掛けるのとは訳が違います。
これの本来の役割は、義眼そのものの保護なんですよ」
「へぇ?」
「そもそも眼球というのは、非常に重要かつデリケートな器官ですから、極力異物が入らないように出来ています。
睫毛や眉毛は、目に異物が入るのを防ぐためにありますし、もし異物が入ってもすぐ洗い流せるよう、常に少量ずつの涙や粘液が出ているんです。
そして万が一異物によって眼球が傷付いても、眼球というのは身体の一部ですから、修復能力というものがあります。
ほんの僅か程度なら、傷が付いても体液が分泌され、傷を治す働きがあるんですよ――まあ限度はありますけどね。
ですが、義眼は、そういう訳にはいきません。
幸い分泌腺に損傷はなかったので、目に見えない塵程度なら洗い流せますが、一度傷つけば、研磨が必要になることもあります。だから・・・」
だから――あの人は――・・・
三仏神の沙汰が下された同じ日に、あの人は義眼を入れる事を勧めてきた。
「そんな・・・命があるだけでも充分過ぎるくらいなのに、これ以上の事をしてもらうわけには・・・」
「その状態で市井に出て、堅気として扱われるワケねぇだろうが。
『生きて償え』と言ったのはこっち側だ、その為の最低限度の準備くらい行う義務はある」
「ですが・・・まだ、生きていくという実感が湧かなくて・・・あれだけの命を奪ったから、死罪になるものだとばかり・・・」
「・・・自分のした事が罪だと思うなら、その両目でしっかりと見届けろ」
「・・・・・・」
「犯した罪から目を逸らすな。最後の最後まで見届けろ。解ったか――・・・」
そう言いながら、こちらを真っ直ぐ見つめたあの人の眼に、心が打ち震えた。
思えば、あの忌まわしい大妖怪の城跡地で、『生きている者』――即ち僕の為に経を唱えてくれた瞬間から、空虚な闇しかなかった自分の心の中に、別のものが生まれた気がする。
その後も、あの人は時に凛とした声で、時に神々しいオーラで、時に射抜かんばかりの視線で、僕を暗い思考から引き上げ、その度にその『何か』は存在を確かなものにしてきた。
そして、義眼の手術が執り行われ、包帯が取れた日。
『見せてみろ』――そう言ってあの人が義眼を覗き込んだ時、息が掛かるほどの至近距離にある端正な顔に、心臓が早鐘を打ち、
――同時に、僕は自分の中に生じた感情の正体を理解した。
ずっとずっと、初めて出逢ったあの日から、惹かれていたのだと。
あの人の顔が離れた途端、居たたまれなくなって俯いた僕の視界に差し出された、小さな箱。
「・・・・・・?」
「餞別だ」
押し付けられるようにして手に取ったその中身は、
「・・・片眼鏡・・・?」
「医者が言うには、義眼は一度傷が付いてしまうと、見た目を損なうし、眼窩を痛める惧れがある上、修復が相当厄介らしい。それを防ぐためものだ。通常の眼鏡を調達するまでは使っとけ」
「あ・・・有難う、ございます・・・」
「忘れるな。その両の目で、前を向け。
最後の瞬間まで、自分の『生』から目を逸らすんじゃねぇ。解ったか――『八戒』」
「――そう言って、彼は僕に、前を向くための義眼とそれを守る片眼鏡をくれたんです。
お解りいただけましたか?」
返事はなかった。
最初に質問してきた当の本人は、既に卓に突っ伏して高いびきだ。
それもそうだろう。自分がそう仕向けたのだから。
ちょっとばかり早いペースでグラスを干せば、相手も釣られて飲むペースが上がる。
初めは七三割りだった焼酎も、どんどん注ぎ足せば、最後は原液と変わりない。
そこへ小難しい専門用語を並べて淡々と話し続ければ、あっという間に夢の中だ。
「そこまで知らなくていいんですよ・・・あの人と、僕以外は」
呟くと、グラスに残った焼酎を一気にあおる。
ほう、と一つ息を吐くと、西側の窓の向こう、沈みかけた月を見やった。
悟浄が、僕の片眼鏡を掛けている顔を見慣れないのも、無理はない。
同居を始めて程なくして通常の眼鏡を購入したので、実際、日常生活の中で片眼鏡を使用する頻度は随分低くなった――軽い読書の時に着けると言ったのも、嘘だ。
もちろん、左目の視力を補う必要があるからというのもあるけど、一番の理由は――あの人の事を、否応無く思い出してしまうから。
それが辛くて、苦しくて、一時期は手に取ることも控えていたけれど、
『僕らお互い、汚れ物同士じゃありませんか』
そう、自分が言った時の、あの人の顔。
悟浄と共に執務室を辞する直前、僕の手首を握って引き止め、
『次の日曜に休みを取っている。土曜の深夜、邪魔してもいいか?』
いつかの時と同様に近付けられた、その声に、瞳に浮かんだもの。
驚いたのは、ほんの一瞬。
悟浄や悟空に悟られないよう、けれどあの人には伝わるように、しっかりと視線を返した。
今日が、その土曜日。
顔を上げて、あの人と向き合うため、久し振りに取り出した片眼鏡を着けて。
空気を読めない同居人が帰宅してしまったのは、残念ながら想定外だったけど。
まあこれだけしっかり潰しておけば、朝まで起きないだろうし、起きた後は、察して出て行ってくれるだろう。
ただ、このままダイニングに居座られると、あの人の眼に触れてしまうので、取り敢えず寝室へ引きずって行って、
大きな図体を部屋に押し込め、ドアを閉めると同時に聞こえてきた、玄関のノックの音。
慌てて食卓の食器や瓶をシンクに放り込む。
本当は洗って片付けたいが、これ以上待たせると、短気なあの人は、鍵を銃で壊しかねない。
依頼にかこつけて新しくしたドアを、再び寺院の経費で修理させるのもちょっとなんだから、急いで駆け寄り、鍵を回す。
声が上擦らないよう、細心の注意を払って、
「お待ちしてました――三蔵」
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