ザアアアアァ――――・・・
雨が降ると、些細な事が神経に障る。
ノイズのように頭に直接響く雨音。
雨の日特有の、湿った空気。
いつもより筆の滑りの悪い紙。
乾きが遅い墨――書き終わっても、なかなか書類を畳めない事が、更に苛立ちを呼ぶ。
そんな時、執務室の扉の向こうから聞こえてきた音。
慌てたように廊下を駆ける足音に、眉間のシワが深くなるのを禁じ得なかった。
ここは、曲がりなりにも東方最大級の寺院だ。
その廊下を、足音がここまで聞こえるほど形振り構わず走る――となれば、そうさせる原因として、心当たりは一つしかない。
「も、申し上げます三蔵様!」
「・・・猪悟能か」
息を切らせて入って来た僧の言葉を遮り、掛ける言葉は質問ではなく確認。
要件など、皆まで聞く必要もないし、そんな時間もない。
扉の前でまごついている僧を押し退けるようにして、部屋を出た。
向かう先は独房――大量虐殺犯猪悟能の収監場所。
ここでもまた、見張り役の僧が顔面蒼白でこちらに縋るような視線を送るのが、酷く煩わしい。
「さ、三蔵様・・・あの」
「退け」
雁首を揃えながら、こいつらはクソの役にも立たない。
怒鳴りつける労力も惜しくて低くそう命じれば、相手はヒッ、と短く叫んで飛び退いた。
普段は鍵が掛かっている扉だが、今はそうではない。
それを勢い良く開けば、
「!・・・・・・」
そこに充満していたのは、雨の匂い。
屋外、ではない。れっきとした独房の中だ。
それを忘れそうになるのは、窓から絶え間なく降り注ぐ雨の所為だろう。
ここの窓は、内側に鉄格子が嵌められ、窓の鍵も開けられないように造られている。
その開かない筈の窓から両の手を差し出し、雨露をそこに受け止めている1人の青年。
――この状況を作り出した、諸悪の根源。
「手枷で、窓ガラスを破ったのか・・・」
更に独房を見渡せば、椅子は倒され、与えられている本は殆ど全て床に落ちている。
常日頃、読書を好む彼らしくない光景だ。
普段、その犯した罪が信じられないほど、大人しく日々を過ごす彼。
――だが、雨の日になると、その様子は一変する。
誰かを傷付ける事はしない。代わりに、暴れ、壊し、自分を傷付ける。
自殺未遂の回数も、1度や2度ではない。
今回も、虚空に差し出された手には、ガラスで切った傷が生々しく、
雨水と共に伝う血が、シャツの袖を紅く染めていた。
取り敢えず、役立たずの僧に必要な物を用命し、この厄介者を窓から引き剥がす。
自分が来た事に驚く様子はない。
それどころか、一切の表情はなく、その眼は酷く虚ろだ。
恐らくは、何も見ていない――唯一つ、過去の罪だけしか。
程なくして持ち込まれた救急箱を開き、応急処置を施す。
この青年がここへ来てからというもの、随分と板についてしまったのが、我ながら腹立たしい。
これまた役に立たない窓ガラスは、外から油紙を貼り付けさせるしかないだろう。
「・・・雨音が、煩くて」
ぽつりと、
それは誰かに聞かせるというよりは、殆ど独白に近い呟き。
「あの日も、雨が・・・窓の向こうから、雨の中から、花喃が、呼んでいる気がして・・・」
「・・・誰も、お前を呼んじゃいない。雨音は、只の雨音に過ぎん」
「ここにいる僕を・・・今もまだ生きている僕を、呼んでいて・・・」
「呼んでなどいない。お前自身が、そう思っているだけだ」
「早く、行かないと・・・花喃が、呼んで、花喃、が、あ、あぁ――あああぁあぁぁっっ!!」
「っ――!!」
狂気の揺り返しに、悟能の目が見開かれる。
再び破壊行動に走るため振り上げられた両手に、自分でも思いもよらない行動に出た。
「・・・・・・・・・っ!?」
手枷の着いた両腕が上げられた瞬間、その懐に入ったのだ。
手が降りると、自分の身体は悟能の身体と手枷で閉じ込められた形になる。
幾ら細身と揶揄されようと、成人男性の身体だ、手枷の鎖の長さは左程ないため、抱え込んだ状態になると、腕を動かすことは叶わない。
こちらからも相手の背に手を回し、宥めるように静かに抑え込むと、暫くじたばたともがいていたが、やがて力が抜け、こちらに凭れ掛かってきた。
高ぶっていた感情の波が引き、緊張の糸が緩んで意識を失ったらしい。
その目は閉じられ、目尻に一筋、光るものが見える。
「・・・・・・」
指でそれを拭おうと思ったが、この体勢では自分の腕も動かし辛い。
だから、というわけではないが、
「・・・・・・」
唇を寄せ、そっと舐め取る。
塩味と、雨の味が、舌の上で混ざり合った。
この感情の正体も、付けられる名も、
今はまだ知らない――・・・
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