有り難き戴き物です♪







「あ」
助手席から、小さな声が上がった。
八戒がハンドルを握りながら横目で窺い見ると、声を発した本人は、素知らぬ振りで
流れる風景に視線を遊ばせていた。
しらを切っているわけでは無さそうだ。どうやら、声を出したと言う自覚自体がない
らしい。
一体、何に気を取られたと言うのだろう。
何事にも動じないように見える三蔵の心に、それ程強く印象を残すものに、八戒は
密やかな嫉妬を覚えた。
彼の中で、自分の存在はどれだけの比重を占めているのだろう。
そんなことを思わずにはいられない。自分の彼に対する好意というものが、恐らく
度を越したものであろうことは、既に八戒は自覚していた。
思いを遂げたいわけではなく、思いを返してもらいたいのでもない。
そんなことを望んではいない。
けれど、ただ思い続けるだけと言うのは、とても辛いものでもあった。
同じ気持ちでなくてもいい。せめて、何らかの感情を引き出したい。
そんな自分に、八戒の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
(浅ましい、な)
思い切るように、明るい声で、八戒は三蔵に話し掛けた。
「どうかしましたか?」
柔らかな声が、三蔵の耳朶を打つ。微かに笑いを含んで聞こえるのは、機嫌がいい
のだろうか。
(コイツの考えてる事は分からねえからな)
微かな吐息が零れた。思惑を読み損ねると、三蔵ですら振り回されることになるのだ。
「何がだ?」
「何かに気を取られて、声を上げたでしょう?」
ああ、そんなことだったのか。
気構えていた分、あっさり返された答えに、彼は肩から力を抜いた。目敏いのは
いつものことだが、改めて問い掛けるのは、退屈だったからだろう。
ここしばらく、敵襲がない。景色の変わらない一本道を延々走っていたら、
八戒でなくとも飽きる。要するに、退屈していたに違いない。後部座席では、
騒ぐ事にすら飽きた悟浄と悟空は、呑気な顔で惰眠を貪っていた。
「ああ」
『別に』と答えてしまうのは簡単だった。いつもの三蔵なら、それで会話を終わらせて
いただろう。そして、八戒もそれを気にしないだろう。
だから、つい会話を続けてしまったのは、三蔵の気まぐれに他ならない。
つまり、彼も口にはしないが、暇を持て余していたのだ。
「マタタビがな、あったんだ」
「マタタビ?お好きなんですか?」
足音もなく、気配を消してしなやかに動くその姿を、猫科の動物のようだと思ったことが
ある。嗜好まで猫みたいな人だ。八戒は小さく笑った。
三蔵の食の好みは、八戒ですら実はよく分からない。何でも食べるし、何を食べても
表情を変えないからだ。極端なことを言えば、高級食材をふんだんに使って作られた
宮廷料理も、野宿のときに捕まえて焼いた蜥蜴も、表情ひとつ変えることなく、同じように
ただ淡々と口に運び、咀嚼しているからだ。
珈琲と煙草、それに、どうやら甘いものも結構好きそうだ、と言うのは、最近になって
ようやく気が付いた。
「実にな、虫えいと言うのが出来る。寄生虫の虫こぶだ。その虫えいの付いた実を
熱湯で五分ほど茹でて虫を殺した後、天日乾燥して粉にするんだ。冷え性、腰痛、神経痛、
不眠に効く。まともな実は、薬種にして使えばいい。効果は同じだ」
「……腰、痛いんですか?」
「……どうして、そうなる」
呆れたように、三蔵は眉間を押さえた。時折、八戒とは会話が成立していないんじゃないかと
思う時がある。今、まさにそうだ。
「いえ、いきなりそんなことを言い出したものですから」
小さく笑った。どうやら軽口を叩いたつもりらしい。だが、それならそうで、もっと
判りやすいものにしてもらいたいものだ。三蔵は、息を吐いた。
「でも、そうですね。良いかもしれませんね」
問うような視線を向けると、意外と真面目な表情をした横顔があった。
少し眉を寄せて考え込むその横顔の、顎の線が綺麗だと思った。通った鼻梁。吸い込まれ
そうな色の緑の瞳。良く見れば、整った顔立ちをしている。
「ねえ、三蔵。今度何か見つけたら、また教えて下さいね」
「……何故、そんなことをしなければならない?」
一瞬、応えるまでに間が空いた。見惚れていた、などと、本人には言いたくないし、
三蔵も認めたくない。
ばつが悪くて、ふい、と視線を前方に泳がせた。
胸がざわついた。落ち着かない。こんな感情に、何と名を付けていいか知らない。
不快なばかりではないその気持ちを、どうしても隣で穏やかに微笑む男には知られたくないと、
ただそれだけを思った。
「おや?」
八戒が小さく呟いて、ジープを止めた。問うように視線を向ける前に、三蔵も気が付いた。
背後で身を起こす二人の気配がする。ひしひしと刺すような殺気が、辺りに充満した。
四人の纏う気が、反応するように、がらりと変わった。
誰ともなく、にやりと笑う。
ちょうどいい。
誰の口から零れた呟きか。
奇しくも、誰もがそう思っていた。
一発の銃声が、幕開けの合図だった。








「ドジ。ドジドジドジ、ド〜ジ!」
けけけ、と笑いながら、楽しそうに声を上げているのは悟浄だった。
緊迫感も何もありはしない。全ての敵を倒し終わった直後、ジープに戻ろうとして
こけた悟空に向けての台詞だった。
「うっせえな、ほっとけよ!」
手をついた場所にあった、先の尖った石で手を切って、だらだらと血を流しながらも、
応戦の構えだ。
敵は既になく、あるのは死屍累々の遺体の山と、あっという間に戻った退屈な日常だった。
不完全燃焼の戦闘意欲がまだ持続している二人には、ここでじゃれても、まだまだ暴れ
足りないのだろう。
「まあまあ。とりあえず、傷の手当てをしちゃいましょう。暴れるのはその後にして
下さいね、二人とも。服に血がつくと、落とし難いですから」
にっこり。
笑う八戒に、誰も口答えなど出来ない。ジープの運転から、洗濯、料理、その他諸々の
雑務を、全て一手に引き受けてくれている彼に逆らうのは愚の骨頂だった。
「傷を洗って下さいね、悟空」
水筒を手渡され、慎重な手付きで水を注ぐ。水場を確保していない以上、手持ちの水は
貴重品だった。それを見守っていた八戒は、次に薬箱を覗いた。
「あ」
その背中が、心持ち固まったように見えた。
「すみません。傷薬、昨日使って、終わっちゃってました。気功、当てます?」
「大丈夫だろう、これくらいなら。それほど大した傷じゃないし。第一、小さな傷で
気功を使うと自然治癒能力とやらが退化する、とか言ってたの、お前だろう?」
本人の代わりに、傷口を覗き込んでいた悟浄が答える。むっとした顔をしたものの、
悟空からも反論はなかった。彼も、気功を当てるほどの傷ではないと判断したのだ。
「三蔵?」
笑いながら頷いた八戒は、何やら不審な動きをしている三蔵に目を留めて、その背中に
声を掛けた。ごそごそと草むらに屈み込み、葉をむしっているようだ。
ばさり、と艶のある大きな葉が一枚、八戒の手に押し付けられた。
「ツワブキの葉だ。火で炙って、表皮を剥がして傷口に貼っておけ。切り傷、火傷に効く」
煙草をくわえ、火を付けると、ぽん、とそのライターが投げられた。これで炙れと言う
のだろうか。手の中の大きな葉っぱとライターを代わる代わる眺め、もう一度三蔵を
見つめた。当の本人はと言うと、さっさとジープに乗り込んで、ゆったりとした仕草で
煙を吐いている。
きょとん、とした八戒の顔が、不意にほころんだ。
最前までの会話を、彼が心に留めておいてくれていたのだと言うことが、この上なく
嬉しい。
四六時中一緒にいる彼らでさえ滅多に拝めないような、柔らかい心からの笑顔が浮かぶ。
たまたま目の当たりにした悟浄と悟空は、顔を見合わせ、もう一度八戒をまじまじと
眺めた。今のやりとりの一体何が、彼の心の琴線に触れたのか分からなかったのだ。
「……八戒?」
恐る恐る声を掛けた悟空に、八戒はいつもの穏やかな顔を向けた。同じ笑顔なのに、
まるっきり違う顔。訳が分からずに首を傾げる二人をよそに、八戒はいそいそと手にした
ツワブキの葉を最大の炎にしたライターで炙り始めていた。
取り残された二人は、再び顔を見合わせると、訝しげに首を傾げたのだった。








重々しい溜息を吐くと、悟浄は煙草を口にくわえた。そして、ライターを手に、ふと
顔を上げると、バックミラーの中からこちらを咎めるように見つめる八戒と目が合った。
力比べのような睨み合い。無言の攻防。ついに根負けした悟浄は、視線を逸らした。
舌打ちをして、くわえた煙草をパッケージに戻す。
どさり、とシートに沈み込み、晴れた青い空を見上げた。
眼の端に、ちらりちらりと動くもの。
忌々しげに、悟浄はそれを睨み付けた。
ジープの後部座席の更にその後ろ。何種類かの薬草が天日干しされて、ひらひらと
揺れている。ここしばらく、ずっとそんな調子なのだ。
(間抜けだ。あまりにも間抜けな光景だぜ)
これのせいで、ろくすっぽジープで煙草を吸えなくなった悟浄は、癇性な仕草で、長い
髪をかきあげた。
何が忌々しいと言って、同じヘビースモーカーのはずの三蔵が、煙草を吸わずにいる
ことに対して、文句をひとつも言わないことだ。
ねだる八戒に、面倒そうに薬草の説明をしながらも、自分も煙草を吸わずにいると
言うことは、何だかんだと言いながらも、薬草だの生薬だの、嫌いではないのだろう。
今ではもう、何種類もの薬草が種類別に保存され、ジープに積み込まれている。自力で
手に入らないものは、購入するほどの熱の入れようだった。
彼らが行くところは、必ずしもカードが使用できる場所ばかりではない。この先、ますます
そんな町が増えるだろう。貨幣価値の違う土地も出てくるだろう。現金を引き出しては、
いくらかは手元に置いておくようにはしているが、たまにどうにもならないときも出て来る。
そんな時、彼の後ろではためいているコレが役立つのだ。
地元で採取出来ない薬草を、高値で売りさばく。
なんせ、元手はタダだ。いくらかの手間と不自由が掛かるものの、なかなか美味しい
商売だと言って良いだろう。
(分かってるんだけどよお……)
もう一度天を仰ぐと、額に手を置いたまま、悟浄は重苦しい息を吐いた。








「なあ、今日も町に着かないのか?」
悟空が、身を乗り出して八戒に訊ねた。ここ三日ほど、野宿が続いている。延々続く
森の道に、少し食傷気味の悟空は情けない顔をしている。来る日も来る日も、顔を
合わせるのが同じ顔ばかりで、退屈で仕方ないのだろう。
その上、こんな時に限って、敵の襲来もないのだ。水を探して汲んできたり、薪を
拾ったり、現地調達で食べられるものを探したり。そんな動きだけでは、悟空にとって
身体を動かしただなんて言えない。うんざりとした顔の悟空に、八戒は宥めるような
笑顔を見せながらも、容赦ない事実を示した。
「すみませんね、悟空。あと二日くらいで、麓の大きな町に着くと思いますよ」
その言葉にげんなりしたのは、悟浄も一緒だった。
「げっ、あと二日もかかんのかよ。あ〜あ、柔らかくて良い匂いのするあったかいモノが、
懐かしいなあ、俺」
「何言ってんですか。毎晩、抱えて寝てるでしょう?お日様の匂いのする、柔らかくて
暖かい毛布」
よもや八戒から返って来るとは思わなかった反撃に、悟浄は思わず口を噤んだ。
反論するのに、タイミングを逃した。脱力したまま、怠惰な格好でシートに沈み込んだ。
もう、敵でも何でもいいから、出てきてくんないかな。
そんな物騒な感想を心に抱いた時だった。
がばり、と悟浄は身体を起こした。無理のある動きは、鍛え上げた腹筋が可能にした。
一息で飛び起きて、臨戦体勢に入る。
目の前から来る圧迫感。雑魚が束になっている訳ではない。久々の大物。
静かにジープを止めると、四人は素早く周囲に展開して、臨戦体制に入った。








「なんだ、コレ?」
うろたえたような悟空の戸惑いは、ここにいる四人の共通の感想である。
「メタモルフォーゼしたまま狂っちゃった妖怪、って感じですかねえ」
のんびりしたように聞こええる八戒の声にも、どこか焦りが感じられた。手強いと
言うのは勿論なのだが、見た目が気持ち悪いのだ。
目の前に立ち塞がったものは、妖怪とも獣ともつかないものだった。
ベースは恐らく熊だろう。けれど、それすら首を傾げたくなるほど、何種類もの
生き物の混合体。鵺とか、キメラとか呼ばれるものは、こんなものなのだろうか。
「うあ、キショイ!あれ、熊か?」
「後は、蛇に蟷螂に、蝙蝠?節操ねえな」
「お前に言われたくはないだろう」
「どういう意味よ、それ」
切迫した空気の中、言葉だけの言い争いが勃発する。お互い本気で言い合っている訳ではない。
条件反射だ。そんな会話を無視して、八戒の声が上がった。
「三蔵!お腹のところに……!」
視線が集中する。あどけない顔で眠る、赤ん坊の顔。妖怪なのか、その小さな耳は、
わずかに尖っていた。その横には、苦悶の表情でのたうつ女の顔もある。頬に文様。
耳も尖っていた。やはり、妖怪の女性だった。
四人の表情が引きつり、引き締まった。
「母子、か……」
吐き捨てるように、悟浄が呟く。
「喰ったもん、全部取り込んだんだろう」
三蔵の言葉と共に、かちり、と硬質な撃鉄の音が静かな森に響いた。
がうん、と轟く銃声が合図だった。銃弾は、狙い違わず、振り上げた右腕に当たる。
右腕の肘の辺りから生えていた、ちろちろと赤い舌を出す蛇の頭を打ち抜いた。
ふ、と熊と思しき腕から生えていた蛇の姿が消え、その足元に白い骨の塊が出来上がった。
「これって、取り込んだのを全部やっつけないと駄目、ってことでしょうかねえ」
「本体に当たれば終わりだとは思うがな。問題は、どれが本体か分からない、って
ことだな」
三蔵の冷静な分析に、悟浄の怒気が募った。えげつないヤツもいたものだ。
刃を飛ばすと、頭部に三つあるうちの一つの首が落ちた。牙を剥き出しにする、狼の首。
蛇の時よりも大きな骨の山が出来上がる。そして、落ちた首の後から出てきたのは
妖怪の首。青黒い舌を突き出し、きょときょとと落ち着かなく周りを見渡しては、
だらだらと涎を垂らしていた。
「生え変わった?表に出ているだけじゃないんですか!」
気持ちの悪さに、一同の出足が鈍る。その間を隙と見たか、敵の腕が振り上げられた。
力は熊並。腕を上げてガードしたものの、直撃を受けた悟空は近くの木まで吹っ飛ばされた。
激突寸前、くるりと体勢を入れ替えて木を蹴り、難なく地面に降り立つ姿を見て、八戒は
ほっと胸をなでおろした。
次に敵は、一番手近にいた三蔵に、狂った視線を向けた。迎え撃つ気満々の三蔵に、
八戒の胸にひやりとしたものが落ちた。
注意を逸らすように、気を放つ。当たらない。顔を掠めて行っただけだ。
それでも、相手の注意を逸らすことだけは出来たようだった。
弱い人とは思わない。けれど、進んで危険に飛び込んでいくのだけは止めて欲しいと、
切に願うだけだ。余計なことだと怒るかもしれないが、それは譲れない自分の我が儘だった。
(こっちだ。こっちに来るんだ……)
狙った通り、自分に手を伸ばしてくるのを、防御壁で八戒は防いだ。
――いや、防いだつもりだったのだ。
気功を応用しての防御壁は、彼の得意技だ。そのまま吹っ飛ばしてしまえ。そう思って
気の力を強めた八戒は、奇妙な感覚に戸惑う。
手応えがない。
どころか、どんどん力が抜けていくようだ。
防御壁が効いていない。そう気付いたのは、すぐだった。
「……っ!」
力が、吸い込まれる。
「あ、ああ……!」
すうっと手足の力が抜けて、頭がくらくらした。ショック症状か、貧血状態なのだろう。
次第に薄れていく意識の中に、光の矢のような三蔵の声が響いた。
「防御壁を消せ、八戒!」
意識を失う前の最後の意志の力で、八戒は防御壁を解いた。倒れ掛かる自分を飛び越して、
悟空が如意棒を振りかざして突き進んでいく。悟浄の錫杖の刃が、縦横無尽に飛ぶ。
三蔵が、経文を発動させたその姿を確認して、八戒は意識を失った。








「八戒!」
悟空がすぐさま倒れ込んだ八戒の元にすっ飛んで行った。
その後を追いかけようとした悟浄は、倒した妖怪の傍らに歩み寄る三蔵の姿に気が付いて、
足を止めた。視線の先には、あどけない目で見上げる、よちよち歩きの赤子と、その子を
守るように上半身だけ残って蠢く母親の姿。
まだ生きていたのかと、驚いて駆け寄ろうとした悟浄を、三蔵は右手を上げて止めた。
す、と左手で構えた銃で、その赤ん坊の眉間に標準が合わせられた。
「おい、やめろよ!」
叫び、駆け寄ろうとした悟浄は、気がついてしまった。見なければ良かった、と後悔する。
最後まで我が子を守ろうとしていたのだろうと思っていた女の恐怖の視線の先には、
三蔵でなく、赤ん坊があった。腕だけで何とか遠ざかろうと、必死でいざる。
と、ざらり、と唐突に女の姿は崩れ、骨の山になった。
無理矢理その骨の山から視線を剥がして子供を見遣ると、一変して凶悪な顔付きになった
赤ん坊の姿。三蔵に飛び掛ろうとしている。咄嗟に悟浄が錫杖を振り上げる前に、
銃声が響いた。
べちゃり、と濡れた音がして、その小さな身体は地面に落ちた。ひくり、ひくり、と
それでもまだ飛び掛ろうと、小さな四肢を突っ張る。凶悪な敵なのだと理解していても、
その姿は哀れを誘う。悟浄がたまらず視線を逸らす寸前、その動きは止まり、小さな
骨の山が残った。

かしゃり。

乾いた音がした。
三蔵が、その骨の山をブーツの先で蹴り崩したのだ。
子供の姿をした敵は、後味が悪い。
罪悪感と無力感に苛まれてしまう。それが、謂れのないものだとしても、だ。
「姿が子供だからと言って、本当に子供だとは限らない」
「……どう言うこった?」
「相手を油断させるために、敢えて無力な存在だとアピールするものもいるだろう、と
言うことだ。案外、メタモルフォーゼが解ければ、しわくちゃのじじいだったかも
しれないぜ?」
平然と言い放つ三蔵に、かっとなった。八つ当たりだ。分かっている。それでも、
身のうちに吹き荒れた罪悪感は行き場を失って、はけ口を求めているのだ。
ぐい、と法衣の襟口を掴んだ。凶暴な目付きになっているだろうことは、自分でも
想像がつく。それでも、だ。それでも、一発殴らなければ、この気持ちが収まらない。
突き上げるような、怒りの衝動だった。
「桃源郷の妖怪を狂わせる負の波動は、未発達の子供には影響しない」
殴られる寸前だと言うのに、顔色さえ変えず、三蔵は静かに言葉を紡ぐ。
虚を突かれて動きが止まったそのタイミングで、三蔵は無造作に悟浄の手を外した。
すい、と悟浄の横を過ぎる。再び殴り掛かられるとは、これっぽっちも考えていない、
確信の歩みだった。
平然とした態度にむかつく。振り上げた腕の行き場がない。それでも、身を焦がすような
やり切れなさはなくなっていた。
ちっ。
苛立たしそうな舌打ちをして、悟浄は踵を返した。
友達甲斐がない、と後で責められるだろうが、倒れた八戒のことを、やっと思い出した
のだった。








「意識は?」
「まだ戻ってない」
肩布を外し、襟元が緩められている。乱暴に丸められた毛布が頭の下に突っ込まれ、
気道の確保がしてあった。悟空にしてはよくやった、と言うところか。
三蔵は、横たわった八戒の呼吸を確かめ、脈を計る。弱いながらも安定したそれらは、
寝ているだけと示していた。
ぐい、と胸倉を掴んで、三蔵は八戒に平手を食らわせた。そして、反対の頬に、
もう一発。寝ているだけなら、これで起きるかもしれない。
ぎょっとしたのは、三蔵の後ろから覗き込んでいた悟浄と、傍らに跪いていた
悟空だ。頭上から心配そうに覗き込んでいたジープは、あまりの驚きに、けたたましく
羽ばたいて、上空に飛び上がった。
「おい!」
慌てて振り上げた三蔵の右手を背後から止めた悟浄は、しかし、刺すような三蔵の
視線に、思わず手を離して一歩下がった。
「野宿出来る所を探せ」
「医者に見せたほうが良くないか?」
言った途端、にやり、とタチの良くない笑いが、三蔵の口元を飾った。
「気を吸い取られて、気を失っているだけだろう。それとも何か?ヤツの運転で二日
掛かる町に、俺の運転で行けと?」
ここは深い森の中。道はあるとは言え、整備されているとは言い難い。その上、三蔵の
運転は、間違っても心地好いと言えるものでは断じてない。さっと血の気を失ったのは
悟浄だけではなかった。悟空も、そして、ジープも、何も言わずに首を横に振っていた。
「俺の運転、って選択は?」
「出来るのか?」
見上げる眼差しに、揶揄も何も含まれていない。悟浄は先の細いでこぼこ道を眺め、
言葉に詰まった。勢いで言ってはみたものの、走り切る自信はなかった。
「……えっと、四、五日掛かって良い?」
「却下。それくらいなら、こいつが目覚めるのを待ってた方がマシだ」
この言葉には、悟空が力強く頷いていた。誰しも、自分の命は惜しいのだ。
「分かったら、さっさと落ち着けそうな場所を探して来い」
二人は、弾かれたように森の中へと駆け出して行った。








悟空が探し出してきたのは、小さな泉の近くにある、狭い空き地だった。
他に選択肢があるわけでなし。分担して荷物を運び、一行はそこに落ち着いた。
石を積んだだけの竈を作り、火を起こす。いつもなら、そこでは八戒が料理をしている
のだろうが、今日ばかりはその姿はない。
代わりに、何種類かの薬草を計っては鍋に入れ、煎じ詰めている三蔵の姿があった。
「それ、何?」
「オウキ、ケイヒ、ジオウ、シャクヤク、センキュウ、ソウジュツ、トウキ、ニンジン、
ブクリョウ、カンゾウ」
聞いた自分が馬鹿だった。まともに答える気などないのだろう。面倒そうに、
中に入れた生薬だけをつらつらと並べ立てる三蔵に、悟浄は肩を落とした。
どう言うわけか、三蔵の機嫌が良くない。
いや、西へと進めない状況に陥っているのだから、機嫌が良ければおかしいのだが、
それ以外に何かありそうな気がする。眇めた眼で、じっと三蔵を見つめた。その視線が
鬱陶しかったのだろう。じろり、射殺されそうな目で睨みつけられた。
「暇そうだな」
言われて悟浄は、ひょい、と肩をすくめる。
「……水は汲んだし、薪もある。後は、悟空が獲物を狩ってくれば、それを捌いて
料理するだけだ」
要するに、やることはやって、今は暇だと言いたいらしい。
舌打ちをして、三蔵は薬湯作りに意識を戻した。
「なあ、何、苛々してんの?」
ストレートな問いかけに、三蔵は舌打ちを押し殺した。
そんなこと、自分が聞きたい。
ちりちりと、胸を焦がす焦燥感。原因は、そこらに呑気に転がしてある八戒に他ならない。
原因ははっきりしているのに、その理由は自分でも分からなかった。
「そんなに、あいつが心配なわけ?」
心配。なのだろうか、これは。
無言のまま、じろりと視線を上げれば、思いのほか真剣な顔付きの悟浄の顔があった。
「……やばい、のか?」
ああ、そう言うことか。自分の態度が要らぬ心配を掻き立てたのか。
「いや、気を吸い取られただけだから、心配するほどのことでもないだろう。
病後の倦怠疲労、貧血とかが、一番近い症状だろう。体力が戻れば、眼も覚ます」
「で、何、それ?」
結局、話はそこに戻った。
三蔵は、面倒そうに息を吐いた。
「十全大補湯。もっとも、奴に効くかどうかは分からないがな」
「おい!」
さすがに顔色を変えた悟浄が、三蔵に詰め寄った。今まで、機嫌が悪いながらも泰然と
していた三蔵の姿があったからこそ、自分たちは落ち着いていられたのだ。いきなり
こんなことを言われて、悟浄としては驚くなと言う方が無理だ。
「勘違いするな。さっきも言った。放っておいても、じきに眼は覚めるだろう。
これは、より早く体力を回復させるためのものだ。薬湯自体は、人間にも妖怪にも効く。
だが、奴の場合は特殊だ。普通の薬も効きにくいようだし、これが効果あるかどうか、
試してみないと分からないと言うのが本音だ」
そう言って、三蔵は鍋を火から下ろした。そのまま、袂から煙草を取り出して、口に
くわえた。火を付け、深く吸い込む。そう言えば、三蔵が煙草を吸う姿を見るのも、
随分と久しぶりだ。
「で、折角作った薬湯、飲ませないわけ?」
「――熱湯だが?」
訊いた答えは、嫌味な口調で返ってきた。
肩をすくめて、悟浄はおとなしく口を噤む。三蔵を構うのは楽しいのだが、引き際が
肝心だった。今日は、間違っても絡んで良い日ではない。
やがて、立て続けに煙草を吹かしていた三蔵は、火の付いたままの煙草を竈の火に
投げ入れ処分すると、ほどよく冷めた薬湯を湯呑に注いだ。
「暇なら、手伝え」
横柄な口調で命じられ、一瞬、むっとしたが、八戒の看病をするに嫌はない。
悟浄は自分のくわえていた煙草を地面に落として踏みにじると、八戒に歩み寄る
三蔵の後に続いた。
「上半身を支えていろ」
ぐったりとした身体を腕に抱え、身体で支えた。意識のない身体は力が抜けて、
とても重い。抱きかかえるようにしていないと、ずるずると崩れ落ちてしまうのだ。
その様子をひどく苛立った表情で眺めながら傍らに跪いた三蔵が、湯呑をその口元に
当てるが、意識のない八戒を相手に、上手く行くはずもない。
「持ってろ」
湯呑を悟浄に渡し、三蔵はその頬に平手を食らわせた。
乾いた音が響き、悟浄は顔をしかめた。他人事ながら、とても痛そうだった。
こんな調子では、眼を覚ましたは良いが、その後、頬が痛くて堪らないだろうに。
「……っ、――」
微かな反応。目配せされて、手にした湯呑を八戒の口に当てた。しかし、わずかに
口に含んだだけで、薬湯は口の端から零れた。
「仕方ねえな」
諦めるのかと思ったのだ。
だから、力を抜いた腕ごと湯呑を引き寄せられ、三蔵が口元に持っていくのにも、
さほど抵抗することもなかった。ただ、三蔵が飲んだ、そう思っただけだった。
「おいおい、お前が飲んでも――」
しょうがねえだろう。
その言葉は、途切れたまま、続かなかった。
白い手が、八戒の頬に添えられた。
そのまま、覆い被さるように、唇が合わせられた。
ながい、とても長い時間が過ぎたように感じた。
口移しで薬湯を口に含ませ、八戒がそれを飲み込んでしまうまで、唇は合わせられた
ままだった。
しばらくして、こくり、と喉仏が上下し、八戒は眠ったまま薬湯を嚥下した。
そして、再び湯呑ごと腕を引き寄せられ、唇が寄せられるのを、悟浄は呆然と見守った。
衝撃のあまり、身動きが取れなくなっていたのだ。
二度、三度、とその動作は続けられ、やがて薬湯は全て八戒の喉に消える。
思考回路が麻痺した悟浄は、ぼんやりとその光景を眺めていた。
まるで、現実味がない。臨場感がないのだ。
だから、湯呑を取り上げられ、目配せされても、何のことだか分からなかった。
「終わった。寝かせろ」
言葉を掛けられて、ああそうか、とのろのろと八戒の身体を地面に横たえさせた。
顔を上げれば、既に三蔵は火の方へ向かっていた。何事もなかったかのような背中。
まるで、今あったことは、悟浄が見ていた白昼夢だったかのようなさりげなさ。
――しかし、現実。
「……お前、愛されてんな……」
血の気の失せた八戒の寝顔を見下ろし、悟浄はぽつりと呟く。
自分や悟空には、三蔵はここまでしないだろう。また、意識のないうちでも、男に
こんなことをされるのは、自分だったら嫌だ。
悟浄は、黙ったまま八戒を見下ろし、煙草を取り出した。
無意識の動作だった。
煙に紛れて溜息を吐き出しながら、こいつはどうなんだろう、とぼんやりと考えた。
自分とは違う感想を持つだろう、と何故か思った。
何かが変わり始めている。
そんなことを思った。







長いので区切ります。
この辺りが色々な意味合いでターニングポイント。
八戒さんが飲んだ(飲ませてもらった)薬湯は、実際に医療用漢方として処方可能。
某処方箋漢方薬大手メーカー(笑)の添付文書に、文中の通りの生薬名が羅列されています。