| 窓辺に佇む白い後ろ姿。 濃闇に舞い散る白い桜の花びらを見つめる横顔が、僅かに緊張して蒼褪めているように思えるのは、気のせいだろうか。 八戒は、後ろからそっと細い腰を抱き締めて、金糸の髪が吐息で揺れるほどの近さに顔を寄せ、優しく囁いた。 「その桜の根本には、死体が埋まっていないんですね」 「死体が?」 表情は見えないけれど、きっと怪訝そうに眉を寄せているのだろう。疑問符を含んだ声色に、八戒は小さく頷いた。 近隣の人々が『桜の杜』と称する土地だけあって、山の斜面にへばり付くように建てられた宿の裏手は、見渡す限りに桜の木だった。 折れるほど細い三日月の月明かりでは、そう遠くまで見通すことはできないはずだけれども、盛りを僅かに過ぎたばかりの満開の桜は、その花びらの一枚一枚が発光しているかのように仄白く、光源がないはずの場所までうっすらと明るく感じる。 丁度、雪明かりがふんわりと青白く見えるように、桜の花が僅かに紅を帯びた白い光を放っているように見えるのだ。 民家は全て宿よりも下に位置していたから、窓からの風景に人工的な明かりは一つもなく、藍色に塗りつぶされた空間に淡紅色の絨緞を敷き詰めたみたいに、ぼんやりと霞が掛かっている。 そんな非現実的な様子を背景に、窓のすぐ外側に生えている一本の木。 まだ年若そうなその木がつけている花は、僅かな紅色をも含まない、完璧な純白だった。 真っ白な桜が物珍しかったのか、三蔵はずいぶん長い間窓の側に立ち尽くし、はらはらと舞い落ちる可憐な白い花びらを眺めていたのだ。 桜の木の根本には、死体が埋まっている。なんて話を聴いたのは、一体いつのことだっただろう。 誰に聴いたのかさえ、もう忘れてしまったけれども、八戒は細い記憶の糸を辿って、遠い昔に聞かされた桜の話を思い出した。 ───桜の木の下には、死体が埋まっているから花びらはその血の色を孕んでうっすらとピンクに染まるのだ。 けれど、ごく稀に真白い花をつける木がある。多分その木の根本には誰も埋められてはおらず、血の穢れを知らないから清らかに白いのだろう───と。 おそらく、子供の頃にどこかで聞き覚えた話だったのだろうが、八戒の中で、それ以来桜の木は誰かの墓標であるというイメージが拭い去れなくなり、ずいぶん長い間、花見で宴会をする人々の姿を見る度に、人様の墓の上を土足で踏み荒らしているように思えたものだった。 今になって思えば、純粋な子供ゆえの滑稽さではあるけれども。 「───だから、僕はずっと桜が怖くて仕方なかったんですよ。夜桜見物、なんて言うと風流に聞こえますけど、墓石の間をそぞろ歩いてる気がして」 三蔵のウエストに緩く両腕を回したまま、くすくすと笑う八戒の胸にことんと三蔵の肩がぶつかる。 体重を掛けるように僅かに後ろに傾いた身体を抱き留めて、八戒は柔らかい金色の髪に頬擦りをした。 「あながち嘘じゃねぇかもしれねぇな。墓標代わりに植樹するなんて話、もっともらしいじゃねぇか」 洗いたての髪と、うなじから立ち上る石鹸の香り。シャワーで温まった身体が無防備に預けられることに、八戒は嬉しくてたまらなくなる。 こんな風に、三蔵に触れることができる日がくるなんて、一体誰が想像できただろう。 もうずっと長く、人知れず抱えてきた想いが成就する。 こんな幸せをもう一度味わうことができるなんて、思いもしなかったのに。 八戒は、今、確かに愛しい人を両腕の中に抱いていることを、まるで夢のように感じた。 彼を、意識したのはいつからだったのだろう。 かつて愛した人を失って、悲しみと怒りに自らも人の身ではなくなって、身体同様に人の心もなくしてしまったはずだったのに。 彼女以上に愛せる人など、自分も含めて誰一人この世に存在するはずがないと思っていた。 彼女は、自分の半身だったから。 花喃が死んだとき、誰かを愛しいとか大切だなんて感じる心は、抉り取られて彼女と一緒に消え失せてしまったものだと思っていたけれど。 人の心は不思議なものだ。 初めて三蔵と出会ったときには、まじまじとその姿を見ている余裕などなかった。 この黄金の光が自分を導くものだと感じたときも、彼が道標の象徴のようにしか思えなかった。 それから、距離を縮め親しくなっていくうちに、彼を最高僧の玄奘三蔵法師としてではなく、一人の人間として認識するようになった。 いくら考えてみても、いつから彼に恋心を抱いたのかははっきりしない。 なぜ、同性であるはずの彼に、そんな気持ちを持ったのか、釈然としない。 それでも、八戒の中で三蔵はゆっくりとその存在を大きくして、最愛の人であった花喃の姿さえ、朧なものへ変えてしまった。 決して忘れられるものではないけれど、古い写真の色が褪せていくように、花喃との思い出はセピア色に薄れてゆき、色鮮やかな三蔵の色彩が重なる。 花喃と三蔵とそれから自分のことを、そんな風に実感した頃から、自分の中の大半を三蔵が占めてしまっていることに、八戒は気づいた。 それが、恋だと認めるまでにはずいぶん勇気がいったけれども、諦めにも似た気持ちで納得してしまえば、胸につかえていた溜飲は下がった。 過去の自分を捨て、自ら望んだわけではない二度目の生を無理矢理歩まされ始めていた八戒にとって、苦悩と贖罪しかないはずの人生。 モノクロの生き方しかできないだろうと予測していた自分に、色をつけてくれたのは三蔵だ。 おかしな話かもしれないけれど、八戒は人の身でなくなって初めて、人の心を持ったのかもしれない。 生まれる前から半身であった花喃ではなく、血の繋がりも縁もない赤の他人を愛すること。 普通の人間ならば当たり前に抱く感情を、八戒は人でなくなってから知ることになったのだから。 生きていて良かったと───生かされて良かったと、八戒は心の底から三仏神に感謝した。 三蔵を知る度に、深く魅かれてゆく。 彼の側に自分がいて、彼がそれを許してくれている。 それだけで、幸せだと思った。 けれどこれは、三蔵本人にはもちろん、同居していた悟浄にも弟のように可愛がっていた悟空にも、誰にも言えない内緒の気持ちだ。 身を焼くほどの渇望に耐えながら、八戒は一生その想いを抱え続ける覚悟を決めた。 そっと寄り添うことを拒絶されない。それだけで、充分満たされていたのだから。 やがて出会って三年の月日が流れ、牛魔王の討伐という命を受け、共に旅をすることになってからも、その関係は変わらないはずだった。 実際、四人の位置はとても明確なもので、一人が欠けても一人が増えても、調和が取れないだろうという絶妙なバランスの上に成り立っている。 旅は過酷なものだったし、常に命の危機に晒され、気の休まることはない。 恐ろしいことに危険は敵ばかりではなくて、悟浄と悟空は顔を突き合わせれば常に喧々囂々。その度に三蔵の銃は容赦なく火を噴く。流れ弾を避けるのにも一苦労なほどにだ。 その日の寝床にも困るくらいの行き当たりばったり。埃っぽい旅暮らしは、決して楽なものではないし、平穏で静かな日常なんて、一体どこの夢物語だろう? とさえ思う。 それでも、幼いときから孤独と不満を抱え続け、唯一手に入れた一時の幸せさえもあっけなく奪われてしまった八戒が、こんな風に気のおけない仲間達と笑いあっているなんてことは、昔の自分からは想像もつかないことだった。 そして、すぐ隣に常に三蔵がいるということ。 これ以上、自分は一体何を望むのだろう。 旅に出て以来、ずっと八戒はそう自問し続けてきたけれども、際限なく貪欲になり続ける感情を持て余していたことも事実だった。 側にいればいるほど、もっと彼を強く求める。 滅多に目にすることのできない自嘲を含んだ小さな微笑みも、怒りの感情を露にした表情も、無防備に眠るあどけない寝顔も、その全てが自分だけのものだったならば……。 甘えて欲しい。拗ねて欲しい。 その甘い肌も柔らかい髪も、ふっくらとした唇も、全部自分一人だけのものにしておきたい。 側にいることだけで満足していたはずの八戒の想いは、どこまでも強く深く彼の中に根を張って、いつしか一人では抱えきれないほど強大なものへと膨らんでいった。 爆発するきっかけは、至極単純なものだった。 限界まで膨らみきった風船が破裂してしまうように、それは何の前触れもなく唐突に訪れて、八戒自身でさえ自制がきかぬまま、彼は思いの丈を三蔵にぶつけた。 貴方が、好きなんです。自分でもどうしようもないくらいに───懺悔にも似た気持ちでそう伝えた八戒の吐露を、三蔵は彼の肩を抱くことで受け入れたのだ。 告げてしまったことで、この微妙な関係は崩壊する。 三年の間に構築してきた僅かな歪みも許されない彼と自分との間柄を、自らの手で破壊してしまった。 そう感じていた八戒に、三蔵は二度目の救いの手を差し伸べてくれた。 頼りないくらい細い腕に震える肩を抱き締められながら、八戒は思った。 ───これは、奇跡だ。 白い桜の花は、三蔵に似ていると思う。 隣り合った木は薄紅の花をつけているというのに、枝が触れ合うほどの近くに咲いていながら、白い桜が紅く染まることはない。 疎外されているのか、自ら交わることを拒絶しているのか、どちらなのかは解らないけれど、百の木が同じような薄紅の花をつけても、迎合することなく清らかに、咲き誇る孤高の白い花。 朱に交わろうとも、決して朱くは染まらない三蔵の気高さと自信と、傲慢とさえ思われるほどの意志の強さ。 周りの者がどうであれ、自分は自分だと言い切ってしまうことのできる真っ直ぐな精神。 白い桜と三蔵のイメージが重なるのは、どちらもそんな痛々しいくらいに純粋な部分を持っているからだろう。 後ろ暗い過去を腹に持ち、足元を掬われればぐずぐずと崩れていってしまう自分とは対照的な潔さ。 諸刃の刃が自らを傷つける結果になったとしても、自分の意志を貫き通すだけの力強さを持った人。 憧れて切望した三蔵が、こうして腕の中にいる。 これを奇跡と言わずに、何と言おうか。 八戒は、三蔵の身体をきつく抱き締めて、まだ視線を窓の外に向けている彼の髪にくちづけた。 「本当に、いいんですか? 後戻りはできないんですよ?」 一度抱いてしまえば、もう二度と手離せなくなる。 三蔵が戯れで誰かの腕に落ちることなどないとは思うし、半ば成り行きで告白してしまってからも、それなりの時間経過はあった。 三蔵にも、八戒の気持ちを受け入れるだけの心構えはできているはずだ。 いくら色恋沙汰には疎いとはいえ、三蔵だって幼い子供じゃない。八戒の恋心を知った上で、身体を繋ぐ行為が、どういうことを意味しているのかぐらい解っているだろう。 それでも、八戒は何度も繰り返し彼に尋かざるを得なかった。 一線を越えれば、何もなかった今までの二人には戻れなくなるのだから。 三蔵に後悔だけはさせたくない。 万が一、彼が好奇心のみで身を委ねようとしているのだとしたら、結果は三蔵を苦しめることにしかならないから。 たとえば、三蔵を抱いてしまった後で、これきりだ。と言われたところで、八戒には素直にそれを納得することはできないだろう。 身体だけが全てではないとは思うけれども、一線を越えてしまってから戯れである事を告げられたとしても、彼を解放してやることはできなくなってしまうだろうから。 身体を繋ごうがプラトニックだろうが、八戒の三蔵に対する想いに変わりはないけれど、彼に対する執着心が増すことだけは目に見えている。 誰からの束縛もよしとはしない三蔵に、きっと窮屈な思いをさせるに違いない。 だから、しつこいだろうと自覚してはいても、八戒は繰り返し同じことを尋ねるのだ。 本当に、後悔しませんか、と。 不安と緊張とが入り混じった、息も詰まるような僅かな時間が流れて、三蔵は吐息と紛うばかりに小さな応えを返した。 「するつもりもねぇ」 「本当に?」 「ああ」 「それなら、こっちを向いてください」 八戒の言葉に、素直に従った三蔵の両肩に手を置いて、八戒は彼の瞳を覗き込むように見つめる。 ともすれば、没個性になりえるほどに整った綺麗な造作の中で、三蔵らしさを象徴している紫暗の瞳。 いつもは強く鋭い光を放っている双眸が、今は不安気に揺れている。 こんな頼りない表情を見せるのは、自分にだけなのだと思うと、愛しくてたまらなかった。 「貴方が好きです」 「解ってる…」 「いいんですね」 思いの外幼い仕種でこくんと頷いた三蔵の両足を攫って、腕の中に抱き上げる。 「おまえ…これは」 さすがにお姫様抱っこは恥ずかしいと言外に告げられて、八戒は三蔵の頬にキスを落とした。 「誰も見てませんよ」 それでも、落とされないように咄嗟に首に腕を回してくる三蔵を抱いたまま、ベッドまでの短い距離を移動して、八戒は彼の身体をシーツの上に横たえた。 「それに、もっと恥ずかしいこと、するんですよ?」 「それを言うな」 ふわっと目の縁に朱を掃いた三蔵の頬を指の背で撫でて、彼の身体の脇に肘をつく。 覆い被さるように自分を見つめる八戒を仰ぎ見る体勢になった三蔵の額から、長い前髪を梳き上げて、八戒はもう一度紅の印に唇を押し当てた。 三蔵が、三蔵法師である証。 彼にとって、これは重荷であるのかもしれないけれど、八戒にとっては彼と自分とを繋いでくれた絆のようにも思える。 彼が、三蔵でなければこうして出会うこともなかったし、きっと自分は既にこの世の者ではなくなっているはずだったから。 |
| 長いので2頁に分けます。 次は予想通りの展開ですよ(怪笑)。 |